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愛されないことの寂しさと愛せないことの切なさ

 
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 祇園の夜は、ひっそりして時々隠れたように、男女が寄り添っています。場所が、場所だけにあまり目をこらして見る人もいませんが、花街にとっては、それがあたかも風物の一つであるように感じます。

 何百年前の男女も、この祇園で同じように夜の白川沿いを歩いて、心のうちを打ち明けたのかもしれませんが、時々そういう陰翳をあちこちに感じたりします。僕自身は、それほど恋や純愛に身を染めてきた人間とは思っていませんが、そういう場所や雰囲気は好きだったので、やはり普通の人よりは、色恋沙汰は多かったように思っています。

 しかし、恋と愛とは似ているようにかなり違いますが、僕は元々恋よりも愛という言葉に惹かれてきた人間ではないかなと思っています。恋は、夢中になったり気持ちが高ぶったりしますが、あまり安定感がありません。

 逆に愛情は、その感情の裾野があまりにも広いので、最初は単に身内に対する漠然とした思いにしかとらえることが出来ませんが、時間的な長さを考えると恋という感情とは比べ物にならないぐらいの重さを人生に残します。

 しかし、人というのは勘違いするもので、特に男女は感情の行き違いが多いのだと思います。恋という土台に愛情を載せていくのは、なかなか難しいもので、逆に愛情に幾ら恋をかぶせてみてもうまくいくものではないと思います。

 恋というのは、やはり火花や一瞬のときめきのようなもので、その時間の短さに美と生命がありますから、言い換えれば、出来るだけ短い付き合いのものほど、その出会いに意味や価値があるものなのかもしれません。

 逆に愛情は、深さや広さがありますが、なんと言ってもその時間にあるような気がします。そういう意味では、恋する人と愛することが出来る人というのは似ているようでやはり違っているのかもしれません。

 結局、恋した人は別にいて、長く愛した人は身近にいたと言いますが、それもあっているようで納得できないところもあるような気がします。特に男女においては、恋することが出来ない人を愛していくことは難しいようなです。

 また、それ以上に今度は精神的な繋がりや肉体的な繋がりも加わってくると、なかなか簡単には解けない、複雑な方程式が出来上がってきます。恋しているけど、愛せない。一緒にいると安心するけど、離れると少し嫌になってくるなど、なかなか複雑です。

 少し近くのバーで飲んでいて、書くとろくなことを書こうとはしないようです。しかし、はっきりいえるのは、男女は紐の綾のように絡み合っていって、それで最期はそれぞれの向かうべきところに進んでいくのではないかと思っています。

 絡み合うことで、愛することが出来る人とそうでない人には、大きく分かれるでしょう。愛せなかった人とは、その後二度と近づくことはないかもしれません。逆に、愛した人は、絡み合いながら暫くは長く生きていくことが出来ます。

 しかし、それぞれが何かもっと大きな愛情や深い愛情に向かっていくのも事実だと思います。また、そういう愛情を見出していかなければ、今の愛情も続くものではないかもしれません。(自分の育てている花だけを愛して、他の花を愛せないことはないことと似ています。)

 愛することは、男女をこえて何か大きなものに繋がっていくことなのかもしれません。そういう意味では、より深く愛することが出来る人を探すことは罪ではないのだと思います。もしかしたら、それは、人に示された使命なのかもしれません。

 偶然に分け入った深い森に、今手元で育てている花よりもより美しく、心を魅せられる花を見つけたとしても、根本的な愛があれば、どちらもおろそかにせずに見守ることが出来ます。しかし、単に収集家の欲望や価値観のみの判断しかなければ、どちらかが犠牲になり、また関心も失ってしまいます。

 今、時代は強い愛情を求めて動いています。愛が残酷のように見えるのは、より深い愛情にむかっていくこで、そういう意味では、時に家族や小さな繋がりも破壊されてしまうこともあるかもしれません。

 愛することは、とどまることを知りません。本当に愛そうと思えば、やはり半分の魂の存在にむかって進んでいくしかないのだと思います。手元の花が美しく咲き、森でさらに美しい花々を見つけても、まだより心が動かされる花を見つけていくのが、愛です。
by fenice2 | 2009-06-22 00:59 | 愛 愛情
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