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南禅寺の思考の時間ー人が人と上手く付き合う法

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 そろそろ、京都でも紅葉が始まってきました。まだ、観光客は少ないのですが、地元の人たちにとってみれば、このぐらいの時期の方がゆっくりできてよいのかもしれません。

 先週までは、まだ青々していた南禅寺の木々もかなり紅葉してきて、同じ場所でも全く違った雰囲気をかもし出しています。今、このあたりを訪れている方は、紅葉のピークをむしろ避けてきているような人たちもいるようです。

 失礼ながら、一組の老夫婦の話を大きな山門の前で、紅葉に浸るようなふりをして盗み聞きをいていました。傍からみると誰もが、仲良く連れ添ってきたと思えるその方たちは、実はとても複雑な間柄であるようでした。

 どのような苦労があったのかわかりませんし、お互いがどういう家庭生活をしてきて、実際の夫や奥さんもまるで想像できない様子がありました。それは、それだけその二人がよく似合っていて、まるでずっと同じ道を歩いてきたようにみえたからでした。

 おそらく、若い頃に初めて会った場所が、この山門であったように感じましたし、それから気が遠くなるほど長い時間会いもしないし、話したこともなかったのかもしれないようでした。

 何十年ぶりかに会った、二人はずっと目の前の現実に格闘しながら、お互いの心を見続けてきたのかもしれません。そうやって考えれば、今までの自分たちの現実は、何であったのだろうというようなことを話していました。

 愛せない人を愛したと言わないけれども、自分が愛する人はもっと他にいるのではないかと思っていた、とか、子供を愛することが自分の中のもっとも大切なことだと思っていたというような内容でした。

 自分に与えられた現実、自分に与えられた人間関係、自分に与えられた夢や希望、しかしそれらが必ずしも幸せではなかったけれども、そこから何かを感じ、何かを得てこなければならない、そういうことがお互いの心の中で妙に納得しているような雰囲気もありました。

 ”屍になる私たち”という言葉を何度も発していましたが、肉体を抜け精神的なことに深い関心を起こすたびに、二人の愛は深く育っていったのかもしれません。

 若い頃に、二人は確かにここで出会っていて、お互い運命の人だということをわかっていたのでしょう。しかし、現実は二人に長い人生を一緒に歩いていく道を与えることはなかったようです。むしろ、その道とは真逆の道を突き進ませたのかもしれません。

 与えられたものは、完全でもないし、自分の心を満足するものから大きくかけ離れたものだったのかもしれない。程度は人によって色々あると思いますが、その理想と現実のギャップにどうすればよいかと考えたりします。

 香りでも、最高の物を使って、最高の技術集団をつかって作れば、深い芸術作品と呼べるようなものが出来るかもしれません。しかし、その最高のものを一体何人、何十人の人が理解し、味わうことが出来るでしょうか。

 僕もカウンセリングしながら、その方の悩みや苦しみをお聞きして香りをつくっていきますが、そういう方を前にして何時も思うことは、本当の意味では何も特別なものを欲しているわけではないということです。

 夢とか希望とか、生きがいと言いますが、それは実は先日の運がよくなったり悪くなったりすることとは根本的に違う場所にあるのではないかと思ったりします。

 スピリチャルや精神世界にも知らないうちに、現実の中での幸、不幸が影響してきます。それは、精神世界という見えない世界がいつの間にか、現実の世界の常識や損得までに侵されていることになるのではと感じたりします。

 人の心は、隅から隅まで見える必要はないように思います。見えない場所があるからといって、それが現実の世界の中の不安や恐怖とは全く異質なものだと思います。

 今の現実も見えない部分が多いのですが、それが即に闇であるということにはならないと思います。


 その二人の今の付き合いは、深い闇に眠っていたものであったのかもしれません。しかし、今はこの上なく幸福を感じておられるのかもしれないです。

 
 
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by fenice2 | 2009-11-12 22:11 | アロマ 香り
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