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夢に近い現実と現実に近い夢ー運命について

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 運という目に見えない存在も香りと同じですから、時々香りを作るときにも引き合いに出されることは多いです。以前にも少し書きましたが、運というものは自分の努力だけではなんともしがたいものがありますが、そうかと言って、直ぐに運が良くなるとか悪くなるというものでもないと思います。

 運がよくなりたいという人はいますが、運が悪くなってもよいという人は殆どいません。ただし、運についてとても強い関心がある人とない人は確かにいます。運について、色々考えるようになるのは、何か人生で大きな出来事が起こったり、自分の力の限界を感じた人など色々ですが、運はそれだけ生きるということと無関係な存在ではないようです。

 別の話をすれば、日本はアフリカよりもずっと運の良い国なのかもしれません。経済は発達していますし、貧困で死ぬ人など殆どいません。アフリカに日本のようなワイドショーがあったら、毎日のように直視できない事件が山積みですが、残念ながら運がよい国に限って、一つ起こった凶悪な事件でこの世の終わりのように大騒ぎをします。

 以前スーダンの特集の雑誌を見ましたが、目をそむけたくなるような写真のオンパレードでした。日本の大抵の人はこういう雑誌をみるのは、体に悪いと感じるのか、どうかすると気分が悪くなったと言ったりします。

 自分の不幸を比べる人はいませんが、相対的な出来事としてはそれは存在することもあります。同じ事故に遭遇しても、他界する人もいれば軽い怪我ですむ人もいます。怪我をした人は、それ自体は不幸ですが、他界した人と比べればその気持ちもおさめられます。

 しかし、他界した人は運が悪かったので、その関係の方は漠然と不幸なダメージが心を襲います。そうやって、考えれば運というのは、人間の社会やどうかすると競争みたいなものと深く結びついていて、運は損得や利害関係に深く関係していうような気さえします。

 昔の人は、運をもっと心の問題にしたり、深くて長い時代の所からの影響だと考えていたようですが、それは、現代の運の考え方とは少し違っているようです。

 人が生きて、功罪を行いその結果として起こってくるものが運としていたようですが、そうやって考えると今の時代の運をよくするという行為やビジネス事態ほとんどが、何処に根拠をおいているのかが疑問になります。

 世界と言わないまでも、出来るだけ不幸にあった人に触れなくすることが、運という人もいます。これは昔の日本の村社会の村八分なんかの考え方や雰囲気に似ています。

 今の日本の社会を悪くしている原因の中で、この不幸や運のイメージの捉え方です。不幸になっている人や困った人を助けない、助けることが出来ないということがこの運命の考えに基いているようです。

 僕自身の個人的な考え方は、そういった何かご祈祷や他から与えられたようなものよりは、運は心から始まっていって、出来上がってくると思っています。そういう意味では、今何を考え、何を感じているかのほうに重きをおきたいほうです。

 転生輪廻、前世など不思議な世界のイメージも、今生きている人があってこそだと思います。運命や宿命に翻弄されてしまう人は、逆に今生きていることを疎かにしているような気がします。

 幸福であろうが、不幸であろうが人は生きている限り、何かを経験しそこから色々なものを感じまた学んでいきます。人を大きく傷つけたり、傷つけられたりする出来事からは避けるべきだと思いますが、それ以外のことは経験したものに勝るものはないのではと思っています。

 精神世界のことのイメージや知識が、最近過剰に宣伝されている気がしますが、生きている人間の感性こそがその方の財産ではないかと、香りをつくることから感じています。

 どれだけよいイメージや考えを持つ人も、それを実行しなかったり経験していない人はしっかりした感性や考えを持つには至らないと思います。

 また虹の写真ですが、今度は三重県の鈴鹿市の椿大社のお参りにいく前に、京都で見たものとそっくり濃く綺麗なものに遭遇しました。これも運でしょうか。全く不思議ですが、自然の中にだって、まだまだ現実であるのにロマンがあるものに満たされています。

 自分の心の中だけにロマンを求めずに、現実の世界の中からもロマンを感じ、作り出しましょう。

 
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by fenice2 | 2009-11-19 19:34 | アロマ 香り
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