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何故愛するのか、何故助けるのか

 僕自身、ここ何ヶ月かは仕事以外でも、どうして愛してどうして助けなければならないかということに、自問自答していました。国連の組織とか、国境無き医師団とか頭が下がる思いの活動をされている方は今の時代は沢山いますが、そういった特別な救いと、単に身の回りの人を助けるということが、どう違うか考えさせられたりしました。

 アンドレジッドの”一粒の麦、もし死なずば”にもありましたが、自己犠牲は尊いものですが、それを何時、どういった時にやればよいのかというのは、実はわかっているようでわかっていないところがあります。

 大抵の人は、悲惨で生きるか死ぬかになれば自分のことはほかって置いても誰かを助けたいという気持ちになると思います。しかし、ハイチなどをみても実際は、食べ物に困るとそのために誰かを傷つけてしまうという矛盾も起こってしまいます。

 僕が、思うに現代は人を助けるということがとても難しいものになっているような気がしています。仮に目の前の人を助けても、果たしてそうすることが良かったのかどうかなどとその後、自問自答してしまうことも多いです。

 以前も書いたとおり、重い荷物をもった年配者が道を渡るのも困っていたら、それは手助けしてあげるべきです。しかし、事業を失敗した人を助けようとして、さらに多額のお金を貸してしまうことは、なんともいえないことです。

 人を救うというときに愛は欠かせませんが、しばしばそれらを一緒にすると混乱してしまうこともあります。自分の子と他の子が同じように危ない目にあうと、大抵の人は自分の子供を救うものです。

 それを、自分には博愛の精神が無かったと責めても仕方がないのですが、現代はこの辺りをなんとも複雑にしてしまっています。スピリチャルブームもこのあたりのからみに、うまくのっているのではと感じます。

 人を助けることは、スポーツに似ているところもあって、瞬発力も要求されてきますから、実際には考える間もないことが多く、またそのときはとてもすっきりして心地よいと思います。

 しかし、その後裏切るようなことがあれば、その心地よい感情と逆のものが湧き上がって助けたことを後悔してしまうことも起こります。

 現代人は、愛情と救いについてあまり考えなくなっています。そして、やがて数々の裏切りにあうと救うという気持ちも、愛する気持ちも失っていきます。

 僕自身も愛しても、裏切られたことは何度もあります。何日も悔しい思いがしたり、時には恨みのような感情も出ることはあります。

 不思議なことに、愛することは何も求めていなかったはずなのに、救いだすと何か結果を求めていくのかもしれません。助けることは、一歩間違えば自分の立場を有利にして、いつの間にかそのことで満足してしまっていることもあります。

 以前、フィリピンのワニ園をつくるときにODAと、僕たちがやるほうのどちらがより効率的で結果がでるかを比べたことがあります。政府の方の投資金額のほうが、我々のプロジェクトよりも遥かに大きかったのですが、結果は殆どのワニを殺してしまっていました。ひどいときなどは、ワニの餌になるべき鶏を現地の人が食べていたようです。

 愛するから救うのであって、救ったからには後まで愛情をもって見守る必要があるのかもしれません。そういう意味では、救うというのは愛するという気持ちがある中でのみ価値があるのかもしれません。

 助けるという仕事は、時に権威になりお金が動くだけにややこしくなります。もしかしたら、偽善で助けるものに職業的なものは、劣るときがあるかもしれません。

 無償で助ける部分をもっと自分自身に増やしていくことが大切なのかもしれません。今年は、蝶人の会で無償で人生相談をする枠を増やしていこうと思っています。

 今生きていることで、何もしないことは罪をつくっていくだけかもしれません。

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by fenice2 | 2010-01-27 20:47 | 愛 愛情
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