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香りの原点ー蓮華畑を目の前にして

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 ここ数週間は、僕にとって香りの原点を見つめるほど大きな出来事がありました。自分の中の感覚が根本的に変わってしまうもの、それが何であるか分るまで、このようなブログも書く必要性を感じませんでした。

 良いもの、悪い物を今更自分の感覚だけで言うのは、それほど熱が入ることではないように感じていまして、果たして人が感じるというのはどういうものか、改めて考えさせられるようで、香りをつくっては見直すことの連続でした。

 そのような中で、以前香りを勉強していた人から香りを送ってきまして、その香りを聞きましたが、今ではあまり使わない香料を使っていたせいもあって、それほど良いものとは思いませんでしたが、逆にそれほど悪いものとも思いませんでした。

 良いものと悪いもの、それが僕の感覚の中では当たり前ですが、ある基準であったように思います。良いものと悪いものの違いは何でしょうか。好き嫌いにも似ていますが、少し違うような気もします。

 僕自身、香りを作っていても好き嫌いでつくっているわけでもありませんし、今勉強している方にそれぞれ成績のようなものをつけているわけではないです。自分なりの花と言う、何も努力や磨かない世界観とも違いますし、自分なりのものをつくるというのは、自分なりの基準をつくってしまうというのに似ているのかもしれません。

 調香は、考えてみれば、わざわざ自然で出来上がっているものを一度破壊して、別の物をつくるという罪深い作業ですが、それを何故わざわざしなくてはならないかということが、人間たる理由があるような気がしています。

 考えてみれば、人は、自然を失ったり破壊したりして初めてその有難さみたいなものを見つけ出していくようです。人の愛情や、深い繋がりもそれと同じなのかもしれません。

 調香に関わらず、自然を相手にしていく中で、良いとか悪いの基準をもつことは合っているようで間違っているのではないかと、その香りをきいていて思ったりしました。薔薇が良いとか、ジャスミンが良いとか、ミモザのほうが勝っているとか、それらは勝手に人間が作り出した世界観や感覚で、およそ自然の中にはそういった物は、最初から存在していません。

 人間の基準、感覚の根本がなんだか大きく見直されているような気がします。熱いとか寒いとか、雨が多いとかそんなものは、人間の勝手な基準であって、自然の中では当たり前のようにそれが起こっているだけです。新芽たちには気の毒な寒さもありますが、それでも青々とした緑を山は現しています。

 香りに関わらず、想像の世界で大きな壁にあたってしまう人は、皆勝手な基準を自分に持っています。その勝手な基準で、なんとかうまく生きようとしますが、今の時代はそんなに甘い部分はもうどれぐらい残されているでしょうか。

 環境破壊とか、云々言う前に自然をこういった状態になるまで追い詰めていったのは人間の業ですし、今もってそれを止めようとしません。僕は、最近天然香料ばかりを使うようにしていますが、それで余計に自然からのメッセージみたいなものに敏感になっているのかもしれません。

 人間の個人の良し悪しの小さな基準など、大きな自然の前では単なる気まぐれにすぎないです。しかし、相変わらずその小さな基準でしか生きていられないなら、それなりの人生が待っているような気がします。

 自然はもっと、沢山のことを投げかけています。僕の周囲の可愛そうにも短命で生きた小動物は、短い人生ながらもそのことをよく受け止めていたように思います。

 自分の中の、些細な良し悪しの感覚をもっている人は、創造の世界で生きることは出来ません。自分のどうでもよい小さな基準を超えることができる人は、新たな想像力をもつことが出来ます。感覚によって、えり分けられる時代がはっきりやってきています。

 誰かを傷つけ不幸にさせる感性の鋭さよりも、大きくてより深い理解ができる感性が求められています。表わすよりも、何かを見つけるような感性が、より価値がある時代に入っているのではないでしょうか。

 



 
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by fenice2 | 2010-04-26 23:44 | アロマ 香り
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