カテゴリ:愛 愛情( 44 )

コミュニケーション産業ー伝えるものと伝わるもの

 中国と日本のちぐはぐな折衝をみていて、いよいよ外交も民間人の専門家の手助けを必要としているのではないかと思うようになりました。以前なら、国もそれなりの機関で用は足したものですが、どうもこれだけ伝達手段が発達しているにも関わらず、基本的なコミュニケーションが出来ていなかったのではと感じています。

 身近なところでは、最近の婚活ブームに始まる、男女のコミュニケーションですが、僕はそういった国際問題を他人事とは思えない切実な問題があるような気がしています。確かに、愛情がどうとか単に好き嫌いの問題もありますが、時間のずれといったら変ですが、根本的なコミュケーション能力の欠落にもあるような気がしています。

 大体、コミュニケーションというわかっているようでわかっていないものは、何なんだろうと考えたりします。少し前には、家族内でも伝える場所と時間が決まっているようなところがあって、僕なども厳格な父と話をするときなどは、何日も前に言葉をまとめたり、相手の間合いを計ったりしたものでした。
 
 結局、何時も条件がそろわないうちに父と話す様になるのですが、きまって言いたいことの半分も言えないことも多かったように思います。そういった子供の頃の口惜しくとも、寂しい気持ちが大人になって、どうやったら自分のことを相手に伝わるだろうと努力するようになったのかもしれません。

 心があるから、伝えようとする力が生まれるとは、キルケゴールだったような気がしますが今の日本の現状は、心はあるのに伝える力が失われているというところでしょうか。

 コミュニケーション産業は、こういった今の困った現状を、うまく切り抜けようと助力するものだと思いますが、僕は結局あまりうまくいかないことが多いのではと思います。本当に何かを伝えようとするなら、まず心をみることです。心がないのに、伝達能力や技術みたいなものだけが発達してもあまり意味がないような気がします。

 国家間は、一時的に民間の情報機関のようなものに頼ることになると思いますが、それもほんの僅かな時間のものではないでしょうか。結局は、トップ同士で意志を伝えることをしなければ、誤解を生じることになると思います。

 意志伝達の誤解は、時には事件を起こし、色々なハプニングを起こしますがそれをまた面白さと見る人もいます。失恋の話は、大抵が滑稽ですが、どちらにも心から思う気持ちがあれば、誰が聞いても残念な気持ちになります。

 経済の需要と供給のバランスは、こういった心の問題と別のものだと思いますが、それがマインドとかコミュニケーションという言葉に踊らされて、一緒にされているからややこしくなっているのではないでしょうか。

 必要とか欲の部分と心は違うものです。しかし、感情はいかなるものからも表に出てきてしまいます。

 あなたの、その伝達手段は何を伝えるためのものかよく考える必要があります。欲を伝えるのに発達したコミュニケーション能力では、愛情を伝えることは出来ないと思います。

 遊びすぎた男が、折角心から愛するようになった女性と出会っても、うまく伝えられないことになります。このあたりの問題点が現代ではごろごろしています。愛することを伝えようと努力すれば、もう簡単には遊びが出来なくなります。

 欲や必要性を感じ取って、第三者が手助けすることは出来ますが、愛を感じ取って手助けすることは自分の他には、小さな天使か妖精ぐらしかないでしょう。まして、愛を伝えようとしている産業や組織は、幻以外の何者でもないです。
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by fenice2 | 2010-10-09 17:07 | 愛 愛情

夢をつくる仕事

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 以前、或る特殊な仕事をしていた時に、東京の赤坂の高層ホテル缶詰状態になりましたが、半月ほど泊まって、ずっと外の光景をみていたことがあります。

 朝起きると、ベッドで朝食を取りますから、まさに出勤もありませんし外の喧騒も感じません。雨が降ろうが、曇りになろうが、室温は一定を保っていますから、まるで無菌室にいれられたような状況です。

 僕の仕事は想像することが仕事でした。如何に新しい夢のような世界を表現できるかにありましたが、一日中夢とはなんだろうと考えていると、気づくと空ばかり眺めるようになっていました。

 僕は、若い頃に色々苦労が続いたとき、ふと今自分にある夢というのは、何処からか与えられたものではないかと気づいたことがあります。僕には、不思議と次々に新しいアイデアや技法みたいなものが浮かんできましたが、それらは自分で生み出したものとはいえなかったようです。

 与えられた夢やそのイメージが果たしてよいものか、どうか色々考えてみました。しかし、結論としては与えられた夢は、自分には相応しくないだろうと感じるようになりました。

 何故僕がそんなに与えられることになったのかわかりません。世の中の人はこれを運が良いとか、幸運とか呼ぶのでしょうが、僕にとってはなんとも苦痛でした。

 ふと下をみると、今度は人が蟻のようになって、スクランブル交差点を渡っています。毎日、毎日それをまるで鳥のような気分になって眺めていると、同じ時間に同じような人の波が出来て、そしてそれが繰り返し、繰り返し浮かんでは消え、消えては浮かんできました。

 人は、みんな与えられたもののために、生きて、与えられたものをずっと大切にして生きているのかなと漠然と感じましたが、それならば一体誰が生み出すのだろうと心配になってきました。

 今までの社会や世の中は、僅か数人の人間の想像力で動かされた時期があると思います。想像した人たちは素晴らしいと思いますが、それでも所詮人が生んだ世界です。

 少しぐらい歪んでいても、不細工な形をしていても自分で生み出すことが本当はもっと大切なことではないでしょうか。創造力や、想像そのものが選ばれた人にしかあたえられた権限とは思いません。

 深い絶望や心に傷があると、想像したものがやがて社会と対立するものを生み出すこともあります。

 テロや、アフリカの紛争はまさに悲劇です。僕も含めて日本人の多くは、その人たちの苦しみを理解することは難しいと思います。

 しかし、僕たちは自然に生活していても、そういう人たちの叫びや苦しみは、体の感覚の中のどこかに受けているのだと思います。僕は、香りをつくると何時も苦痛の叫びを感じます。人によってはそれを大きく受けている人もいますし、そうでもない人もいますが、受けていることには違いないです。

 不景気で不安定な世の中ですが、そういった叫びや苦しみを感じるのは良い時代だと思っています。一人一人がそれを自覚することによって、理屈まみれの生活から抜け出すことが出来るように思います。

 優しくなるには、心の強さも大切だと思います。意味不明でも、心の辛さを感じることができた人は実は幸せなのかもしれません。

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by fenice2 | 2010-01-28 19:31 | 愛 愛情

何故愛するのか、何故助けるのか

 僕自身、ここ何ヶ月かは仕事以外でも、どうして愛してどうして助けなければならないかということに、自問自答していました。国連の組織とか、国境無き医師団とか頭が下がる思いの活動をされている方は今の時代は沢山いますが、そういった特別な救いと、単に身の回りの人を助けるということが、どう違うか考えさせられたりしました。

 アンドレジッドの”一粒の麦、もし死なずば”にもありましたが、自己犠牲は尊いものですが、それを何時、どういった時にやればよいのかというのは、実はわかっているようでわかっていないところがあります。

 大抵の人は、悲惨で生きるか死ぬかになれば自分のことはほかって置いても誰かを助けたいという気持ちになると思います。しかし、ハイチなどをみても実際は、食べ物に困るとそのために誰かを傷つけてしまうという矛盾も起こってしまいます。

 僕が、思うに現代は人を助けるということがとても難しいものになっているような気がしています。仮に目の前の人を助けても、果たしてそうすることが良かったのかどうかなどとその後、自問自答してしまうことも多いです。

 以前も書いたとおり、重い荷物をもった年配者が道を渡るのも困っていたら、それは手助けしてあげるべきです。しかし、事業を失敗した人を助けようとして、さらに多額のお金を貸してしまうことは、なんともいえないことです。

 人を救うというときに愛は欠かせませんが、しばしばそれらを一緒にすると混乱してしまうこともあります。自分の子と他の子が同じように危ない目にあうと、大抵の人は自分の子供を救うものです。

 それを、自分には博愛の精神が無かったと責めても仕方がないのですが、現代はこの辺りをなんとも複雑にしてしまっています。スピリチャルブームもこのあたりのからみに、うまくのっているのではと感じます。

 人を助けることは、スポーツに似ているところもあって、瞬発力も要求されてきますから、実際には考える間もないことが多く、またそのときはとてもすっきりして心地よいと思います。

 しかし、その後裏切るようなことがあれば、その心地よい感情と逆のものが湧き上がって助けたことを後悔してしまうことも起こります。

 現代人は、愛情と救いについてあまり考えなくなっています。そして、やがて数々の裏切りにあうと救うという気持ちも、愛する気持ちも失っていきます。

 僕自身も愛しても、裏切られたことは何度もあります。何日も悔しい思いがしたり、時には恨みのような感情も出ることはあります。

 不思議なことに、愛することは何も求めていなかったはずなのに、救いだすと何か結果を求めていくのかもしれません。助けることは、一歩間違えば自分の立場を有利にして、いつの間にかそのことで満足してしまっていることもあります。

 以前、フィリピンのワニ園をつくるときにODAと、僕たちがやるほうのどちらがより効率的で結果がでるかを比べたことがあります。政府の方の投資金額のほうが、我々のプロジェクトよりも遥かに大きかったのですが、結果は殆どのワニを殺してしまっていました。ひどいときなどは、ワニの餌になるべき鶏を現地の人が食べていたようです。

 愛するから救うのであって、救ったからには後まで愛情をもって見守る必要があるのかもしれません。そういう意味では、救うというのは愛するという気持ちがある中でのみ価値があるのかもしれません。

 助けるという仕事は、時に権威になりお金が動くだけにややこしくなります。もしかしたら、偽善で助けるものに職業的なものは、劣るときがあるかもしれません。

 無償で助ける部分をもっと自分自身に増やしていくことが大切なのかもしれません。今年は、蝶人の会で無償で人生相談をする枠を増やしていこうと思っています。

 今生きていることで、何もしないことは罪をつくっていくだけかもしれません。

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by fenice2 | 2010-01-27 20:47 | 愛 愛情

愛することと誰かを救うこと

 
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 北野天満宮の梅も、今年はかなり早いのか、もう2分咲きのような感じです。京都に来て、もう直ぐ一年になりますが、こちらで仕事をやらせていただいて、本当に色々な方向性を見つけることが出来たので、有難いと思っています。

 季節を感じながら生きていくことの大切さを、特に香りに関しては深いつながりを感じています。同じ山や木々でさえも、ずっと一年を通じてみていかなくては分らないことも多いと思います。

 人の心もそうだと最近特に思うようになりました。調香を通じて、見えない世界の色々な部分を表現したりするうちに、その延長でカウンセリングや占いの分野まで活動を広げるようになりましたが、そろそろ自分の中で納得できるものと、そうでないものを分けていくべきだと考えるようになりました。

 誰かにアドバイスや助言をするにも、その場だけのものはどうも僕には合わないのではないかと去年あたりから強く思うようになりました。もっと正直にいえば言動に責任を持つことが難しくなってきてしまいます。

 今は、お蔭様で多くの方が香りの勉強に参加して頂いているので、それを通じて心の中のことや将来について、深く色々な方向で見ることができます。

 見えない世界のものを形にすることで、誰もがわかるモノになり、そこからまた新たなことを発見したり学んだりしていきます。以前にも書いたとおり、人が人を観るということは、とてもリスクのあることが多く、曖昧で矛盾を帯びてくることも少なくありません。

 僕自身、人間ですから間違いを起こすことはあります。特にそういった特殊な世界や能力の中では、感情や体調などによって、アドバイスする結果も大きく変わってくることもあるのかもしれません。

 魂や心は、はっきり見えない世界ですが、それだからこそ古代の先人たちが、それを形に現そうと努力してきたのだと思います。残念ながら、今のスピリチャルのブームは、それを先祖帰りさせて、形あるものをまた摩訶不思議な世界に引き戻そうとしているように感じます。

 占いは、その中でどのような位置を占めることになるのでしょうか。ちょっと僕は、危うい場所に来ているのだと思いますので、その分野での仕事は極力控えておこうと思っています。このエキサイトの仕事も、今月一杯で終える予定です。

 今後は、香りをつくったり、指導していく部分、もしくは文筆していくほうに集中しようと思っています。

 人を助けるとか、愛するということももっと自然で出来る時代が近づいているような気がします。

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by fenice2 | 2010-01-26 13:49 | 愛 愛情

人を救う事で、得るものと失うもの

 どんな人でも善意をして、人助けをしたいと思うのですが、実際には一度きりのことも多くなかなか上手くいきません。人助けという看板をあげている仕事でも、一歩間違えば単に仕事と割り切ってしまうようなこともあります。

 かなり前の話ですが、糸川先生と一緒に勉強していた時に、アフリカに救援物資を届けるということがあって、ちょうどバブル時期であることもあって、大量の良い食材が残飯として破棄されていましたが、それを送る事業を計画しました。

 慈善事業ですから、当然利益はありませんが経費分だけはなんとか、寄付で募ろうとしましたが、金額はそれなりに集まったのですが、その残飯を集める費用と、運賃がかなりかかってしまいました。それよりももっと意味がないのは、現地で購入して、物資を支援するほうが、何十分の一の費用でまかなえるので、事業自体の必要性さえ失われていきました。

 日本で余った食料を、恵まれない国へという美しいスローガンは、脆くも壊れてしまいました。それからも、色々立ち上げては、妥協的なもので実行され、説得力や、魅力が無くなってしまいやがて支援する企業も殆どなくなってしまいました。

 人を助けるということも、これに似たところがあります。仕事になれば、報酬が出るので出来るだけ難しいことをやろうとします。

 勿論、不幸に合った人や心が病んでいる人をほかっておく訳にはいかないと思います。色々な方法をつかって救い出そうとする努力は大切です。でも、結果はどうでしょうか。人の心が救われたというのは、何をもって救われたとするのでしょうか。心が病んだ人が、救えなかった人に本当の意味で、クレームをつけることが出来るでしょうか。

 カウンセリングや人生相談など、人の心を扱う仕事は、常に相手よりも有利な立場に立って仕事をしています。報酬をもらって尚且つ、感謝されます。本当にどこに問題があるのかを見つめていかないと、すぐにも間違った方向にいくような気がしています。

 色々な人の心を相手にして、救いきれなかった重さは身をもって償うことになります。その重さは、その人の人生観そのものを変えて、場合によっては新しい心の病を自分自身に持ち込みます。ミイラ取りがミイラになる例えです。

 妙な技法や、祈祷などをつかって一時期は心が軽くなりますが、また時間がくれば倍になって苦しさが戻ってきます。アドバイスや助言は大切ですが、救うというテーマには創造することが無ければ、落ちては沈む枯葉が水の中で舞っていることと同じです。

 何度も水の中できりもみにされるうちに、ズタズタになり葉も擦り切れていきます。救うという産業と、心の関係はこれに似たものがあるのではないでしょうか。

 助言やアドバイスをするのも、それを行う人に重い心の悩みがあって、果たして通じるでしょうか。それよりも何のための助言をするのでしょうか。

 僕は、人生は創造とその力の連続であるような気がします。家族や身内の関係は基より、友人関係や異性関係、単なる会社の企画から、人との何気ない会話まで、創造力は影響しています。

 まれに創造力は、悪しき心からも発することがあります。それでも結果は出ますから、自分でその責任を感じることで、またよりよい創造力を見出していきます。

 救うという言葉に踊らされ、酔っていては新しい世界をつくることは出来ないと思います。一人一人が新しい世界をつくる使命をもっているように思います。

 創造のために救いは意味があります。創造がなくて、救いは単なる気まぐれになってしまうのではないでしょうか。

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by fenice2 | 2010-01-14 17:37 | 愛 愛情

男女の愛情で傷ついたら、暖かくて深い本当の気持ちが必要です

 新年から香りをつくっていますと、男女の擦れ合う音や匂いを感じました。本当の愛情に、嘘の愛情で返していって、心の傷は益々深くなってきます。

 恋愛が何かいばらの柵のようなところに閉じ込められていて、それに近づく人間に様々な傷を残しています。今の時代ほど、恋愛と愛情が離れ離れのものになっている感覚の時代はないのかもしれません。

 恋愛から学ぶことは、後悔と男女の性の格差です。そういう関係にならなけば上手くいく男女も、恋愛のいばらの枠に入った途端に、傷に苦しみ、深く愛する気持ちを忘れていきます。

 恋愛がもっと愛情に近かった時代もあったと思います。美しい情緒の後に、本当の思いやりや深い思いが、やがて、愛情になってきたのではないでしょうか。

 好きという感情が、今の時代は、まるで槍のように鋭くなっているのかもしれません。その槍は、相手の心にめがけて深く差し込んでいきます。好きになったのではなくて、感情の奴隷のようにされた人も居ます。

 物に対する好きも、マニアやオタクなどを見ても、そういったイメージが沸きます。マニアは、同一の似たようなものを欲しがり、それに多くの槍を突き立てて、モノの価値を高めていきます。

 白羽の矢が多く刺さったものは、価値があり注目されますが、何もないものは無価値で目を向けるものもいません。

 恋愛もそれに今は似ています。好きになり、夢中で相手の心を射止めようとします。しかし、射止めたと思った心は、本物ではなく、幻の心です。好きという感情だけで相手の心を捉えることは出来ないです。

 人の心は、僕はもっと神秘的で捉えどころの無い部分を沢山秘めているような気がします。

 当たりの無いゲームにやがて、飽きてくるように好きという感情がすぐに収縮してきます。後には、惨めな男女の感情が残るだけになります。

 感情よりも、愛情や愛からの行為が大切だと思います。それほど好きとは思ってないくとも、何十年も同じことをやり続けるには、やはり深い情感が必要です。

 最近の好きや恋愛は、エゴイスティクな延長で、元々創造させるものを殆どもっていません。

 大きな感情の渦が引きおこされる時代です。一時の感情に溺れて何もかもなくすこともあるような気がします。

 男女の関係でも、もっともっと深い愛情が必要です。深い愛こそが、生きる力を持ち、心を大きく変えていくように思います。

 宇宙からの愛もよいですが、そのような抽象的なものでなく、人の愛をもっと理解し愛すこと出来る人が、この世に増えてくることが大切なのではないでしょうか。

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by fenice2 | 2010-01-13 19:51 | 愛 愛情

京都時代祭りー紅葉の季節の前に

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 京都での勉強会の合間に、時代祭りでにぎわっていましたので、しばらく見ていました。これは、流鏑馬というもので、馬に乗りながら矢を当てるものですが、衣装が美しくその色彩に関心していました。

 単に矢を当てるだけならこのような、衣装や装備は必要ないのですが、一年の計を占うということになると、こういった背景は必要なのかもしれません。


 先日の続きになりますが、生まれついて愛情に満たされた人は、いわば愛情の優等生みたいなところがあって、生物学的に言っても長生きしやすく、生存競争にも打ち勝つ可能性を持っています。

 それに比べて、両親や身内に情愛に縁が遠かった人は、愛情の劣等性で世の中に出ても、挫けやすくまた対人関係でもトラブルを起こしやすいのではないかとも言われています。

 愛情までが偏差値のように決められてしまったら、人の生きる運命はほぼ10代の頃までに決まってしまうといってもよいかもしれません。

 しかし、この愛情や愛というものが、わかっているようで不思議なところが多く、確かに劣等性はいじけた人生を暮らしそうになりますが、何かのきっかけでもっと大きな人類愛や博愛の精神に目覚めることもあります。世の中で偉業を達した人は、よく私生児だったことを聞きますが、それもその証拠でしょう。

 また、傷つけることが何一つない家庭に育った人が、逆に世の中で何かのきっかけで転落始めると、坂を転げるように堕ちていくことがあります。

 愛情や、愛というものは実に厄介なもので、与えすぎると妙にオカシナものになってしまい、逆にうまれつき仮に少なかったとしても、何処かで補給しようとして大きな愛情になってしまうこともあって、逆に愛情を与える立場になることもあります。

 先日、人が人の愛情の大きさや力を影響するには限界があると書きましたが、それでもやらないよりはやったほうがずっとましだと思っています。いや、むしろそれが人として生きる道ではないかと感じたりします。

 人柄、家の筋そういうものは厳然としてありますし、それが結婚などの時には大きく関係してくると思います。海外の王室で、王位を捨ててまで平凡な市民と結婚したという話がありますが、それも家柄から受けた愛を超えて何か他の愛情に目覚めたからなのかもしれません。

 アフリカの難民を家柄が悪いといって、救うのをやめたりするでしょうか。しかし、隣国である中国や韓国には人種や歴史の支障などによって、そういった偏った感情がわだかまっています。

 自分自身がもっている愛情や、愛とはなんだろうと時々僕も考えます。そして、大抵がそういった大きな愛情ではなくて、箱に入った救われるものだけを救う愛情だけに固執しているのがわかります。

 目に見えて救われるものを救うというのは、なんとも想像力がない世界観だと思います。人が人として生きる道は、愛したものを救うではないでしょうか。

 貴方が愛した人が溺れて、明日をも知れない命なら、どんなことがあっても助けるべきです。今の時代は、愛することと助けることが同時に起こっている流れになっています。当分、その流れは変わらないでしょう。

 助けることを放棄することは、愛することを放棄することと同じになってきます。
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by fenice2 | 2009-10-25 00:25 | 愛 愛情

愛と憎しみと自己犠牲ー親子の本当の理解

 
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 先日、雅楽を見に行きましたが、ふと愛や憎しみについて考えさせることもありました。僕自身、母親に対しては長い間、父の関係のことで憎しみを抱いたことがありましたが、それが今となっては、お互いを理解するうえでは何故か避けては通ることが出来なかった道だなと思うようになりました。

 愛するという長い道のりは、特に親子では、愛していくことの基本になってきますが、ただ絵に描いたような美しい関係を続けるものがよいとはいえないのかもしれません。

 大抵の親は、子供に愛されることを見返りに愛情を与えているのではないと思います。時には憎まれるようなことがあっても、どうしてもそれをしなければ親子の関係を継続していくことが出来ないという状況が幾つもあるような気がしています。
 
 それは、単に感情的な発散なのかもしれませんし、自分自身が抱えたカルマを子供にぶつけているだけなのかもしれません。

 本当意味での愛情ならば、時間がたてば納得することもあるかもしれませんが、実際には親の都合のよい自己保身やエゴからきた感情も幾つもあると思います。

 親のくせに、親でありながら許せない行為だと、マスコミなどは何かそういう事件が起こるたびに、声をそろえて非難し、理想の母親像や親子関係を力説していきます。しかし、僕は、今の時代親子の関係こそ過去の悪しき風習によって形と中身の伴わないものになっているような気がしています。

 親には孝行しなくてはいけない、親子の関係は美しいものでなくてはならないなどと言いながら、果たして周りを見回してもそのようなことを本気で思っている人がどれぐらいいるでしょうか。

 憎む気持ちは決してよいものではないのですが、ちょっとしたきっかけでそれは愛情に変わることはあると思います。それに元々親子なのですから、それぐらいの壁は乗り越えることが出来るのではないでしょうか。

 しかし、諦めたり、無視していくことはもっともよくない心の働きだと思っています。親子の関係で距離を置くようなら、僕は、これから将来起こってくるあらゆる人間関係にも何かあれば、冷たく接してしまうかもしれないと予感します。

 親子の関係は美しいものでなくてはならない、親には常に尊敬の念で接しなければならない、そういうあまりにも硬い固定観念が今のような親子の事件を起こしているのではないかと思うことがあります。もちろん、その考えや思想はとても崇高なものだと思いますが、親子の前に人と人の関係を忘れては、本末転倒ではないかとも感じます。
 
 親子の関係は、どうであれこれから自分が社会に接して行く上で大前提であり、もっとも基本になっていくこだと思います。時には衝突し、憎しみあうようなことがあろうとも最期は理解していくべきものではないでしょうか。

 憎くみ憎まれることで、お互い傷つき人生そのものもだめにしてしまうこともあるかもしれません。しかし、それだけの犠牲を払っても親子の関係を本当の意味で理解していくには、賭けていくだけの価値があるものだと思います。

 将来それだけのことが起こっても、乗り越えることが出来そうな相手なら本当の愛や理解を得ることが出来るかもしれません。しかし、少しでも怒り、悲しみ、憎しみなどマイナスの感情を出すことを厭う関係なら、深く理解していくことが出来ないかもしれません。

 
 






 
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by fenice2 | 2009-10-16 11:51 | 愛 愛情

闇の想像力と光の想像力ー時代のパワーバランス

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 僕の父だけではないですが、戦後何年かはどこをどうやって生きてきたのか思い出すことが出来ない、思い出したくもないという人がいます。つい数日まで、多くの戦火の闇の中で生きてきた人たちが急に平和になってもなかなか本当の意味での夢や希望を見出すことは出来ませんでした。

 手塚治の”どついたれ”という漫画の中にもその一部が書いてありますが、日本は復興したとはいえ、その多くの部分を怨念や深い罪を伴う闇の想像力をえて現代に至ってしましました。

 今回急死した政治家の中川氏もそうですが、きしくも同じ日に宮内庁の幹部も山から転落して死亡しています。

 僕自身の家も人も羨むような邸宅でしたが、一日として心が休まる日はなかったことを思い出します。暗黒の想像力を手に入れた父は、事業を行うたびに財を築いていきましたが、ある時から本当の愛や愛情に目覚め、自分の足に大きな錘の足かせを履きました。

 父は、自分の心の良心には正直になってきたのですが、経営者としては失格の人間になっていきました。そして、暗黒の力は益々力を強め、さらに周囲が巨大事業に参画させようとしていました。

 父が身につけた暗黒の力は、先ほどの戦後何年かの間に、家を抜け家族から離れて小さな子供が、大阪の中で一人生きていくために、あらゆることをしてきたことでした。

 どれだけ雄弁の父もそのときの思い出だけは言いませんでしたが、本当の意味で叱られたときに見せる顔をみると身震いするような恐ろしい表情をすることもありましたので、子供ながらになんとなく生い立ちを想像出来ました。

 父のことを少しは弁解すると、同じように事業で成功した人たちに比べると、ずっと家族思いで周囲でも愛されべき人柄をもっていた人間ではなかったかと思います。しかし、事業というか仕事に関しては、おそらく先ほどの恐ろしい一面を持っていましたので、それが大きな繁栄に結びついていったのですが、多くの敵も増やしていったのだと思います。

 暗黒の想像力と、小さなものを慈しむ心そういうものが、父の心の中では絶えず葛藤していたように思っています。しかし、何時しかその暗黒の世界との境界線もあっさり超えさせてしまう出来事が起こります。僕はそれがバブルの時代の日本の経済であったように思います。

 父は、結局バブルが始まるすぐ手前、50代で他界しますが、パワーバランスの崩れから精神はかろうじて支えていたのですが、体はあっという間に蝕まれ、発病してわずか数ヶ月でほとんどの内臓が癌に侵されてしまいました。

 父の死を追うように、公認会計士や取引先の関係者もそれから暫くして亡くなりました。暗黒のパワーは何も父一人だけのものではなかったのだと思います。

 父の会社の再建に20代で接した僕は、そういう暗黒部分に深く入り込み、暫くは全く抜けることが出来ない人間になっていました。そのことは、以前詳しく書いたのですが、それが僕にとっての人生でもっとも大きな出来事であり、心の中に深い闇をつくった原因になりました。

 僕は世界を回ったり、色々な宗教にも触れたりしました、大げさにいえば、人生の使命はいかにその暗黒の想像力をこえる、光の想像力から人の関係や、仕事や社会を作り出せるかというものになっていったのだと思っています。

 香りとの出会いは、イタリアのフィレンツェでしたが、なんとも不思議なデジャブ感や懐かしさを感じていましたが、自分の中の光の想像力と結びついていくのは、それほど時間はかかりませんでした。

 平和な気持ちや愛情、小さなものを慈しむ気持ちから想像したり、人の気持ちを理解できるようにならねばといつも感じるようにしています。

 世の中が、本当の意味でよい世界になっていくのは、結局は一人一人の闇と光の戦いではないかとも思います。

 
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by fenice2 | 2009-10-05 13:40 | 愛 愛情

愛することと愛されることで始まる魂の試練

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 人が生まれて、最初に誰でも両親に祝福されてきますが、そこから始めて人として愛する時間が始まります。生まれたときは、愛することよりも愛されることに一心になりますから、まだ愛することを学び始めるのは、ずっと後になってからです。

 愛することと、誰かを好きになることは似ているようで違いますから、もしかすると何歳になっても愛することを始めていない人がいるのではないかと時々思うことがあります。

 また、愛することは今日これだけやって、明日はこれで終わりということではなく、ずっと続けていくことが出来るものではないといけないと思っています。何気なくつくる料理、何気なく掃除をすることなど、日常の当たり前のことに愛情の片鱗があるような気がします。

 愛が失われてくると確かに、もっと自分が愛することが出来る人がいるはずだと思ってきますが、それは半分はあたっていますが、半分は間違っているのかもしれません。

 本当の意味で、自分の半分魂の人との生活を行ったとしても、それほど夢のようなものではないのではないかと思ったりします。というのも、何十年と愛し続けることは、それほどたやすいことではないと思いますし、本来愛すべき人を愛せなくなったときの苦悩はとても辛いものがあるような気がしていますから、何も最初からそんなリスクを背負う人は少ないのだろうと思います。

 最初から半分の魂、つまりは愛して愛されるべきはずの人の繋がりを避けているのは、多くの人は実は一人の人を愛し続けることに苦痛を感じてしまうからだと思ったりします。運命がそうさせているのではなくて、本能的なものなのかもしれません。

 先日も、僕が仕事上で10年ほどお付き合いをした方がいますが、いつの間にか相手の方がそれを強く求めてこられるようになりました。今までにも信頼関係はあったのですから、それで十分だと思っていたのですが、知らないうちにそれ以上のものを求められるようになっていたようでした。

 しかし、愛を求めてくることは仮にそれを受け取ったとしても、今度は返さなくてはならないという心の負担が起こってきます。母子でもそれが、曖昧になってくることがありますから他人なら尚更です。

 与えたほうは、気持ちが楽かというと案外そうではないです。自分が愛を与えた相手には注意深く見ますから、なかなかそれが返ってこないとなると穏やかな気持ちではいられなくなります。

 沢山の人は、一方で一人の人を愛し続けることに憧れながら、実際にはその機会を避けているのではないかと感じることがあります。それだけ一生を愛し愛されるということは、簡単なことではないかなと思ったりします。

 愛し続けていくことは、大げさな言い方をすると試練であって、そこから逃げても結局大きな幸せはないだろうと感じています。自分の子供、両親、妻や夫それぞれその試練は何処かでは、始まっています。

 そういう意味では、愛することもそれを通すことで価値があるのかもしれません。僕もどちらかというと、そういう愛情や愛のあり方を通したいと思っています。
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by fenice2 | 2009-09-25 22:45 | 愛 愛情