カテゴリ:悪魔( 3 )

瞑想についてー闇の世界の匂い

 熊野の玉置山の中の闇は、かつて高野山で過ごした山の闇よりももっと恐ろしいものがありました。もし、自分の中に神というものを見出せることが無ければ、僕は恐怖のあまり多くの魔物に魂や心を奪われていたのかもしれません。

 人は絶望し、多くの悩みを抱えたまま瞑想にふけるようなことになれば、僕が体験した山深い闇での一夜の状態に似ているのではないでしょうか。闇の中から得るものなど、殆どないと言ってもよいかもしれません。しいていえば、現実から逃れて一時的に気持ちが楽になるだけです。

 悩みや苦悩は、逃げればそれだけ大きく感じてしまうものだと思います。真正面から向き合うことが出来なくとも、完全にそこから離れてしまったら、かえって負担は大きくなるのだと思います。

 闇を直視するのと、闇に逃げ込んでしまうの全く違います。闇を恐れる人は、闇そのものに入ってしまうような恐怖感があるのだと思います。闇は決して、心に入れてはならず、また本来入っていくものでもありません。

 インカのチャカナのイメージにそって香りをつくってからは、暫く闇からは遠ざかっていましたが、今の時代を見る上でこの闇はやはり無視できない存在になっているのではないかと思っています。つまりは、心の中にも外にも闇や地獄のようなイメージを持っている人は、世の中には沢山いるということです。

 本来、闇は、静かで心の安寧を与えてくれるものでもあったように思います。平和な時代の中での瞑想は、人の精神世界の中で大きくな成果を与えてくれたでしょう。しかし、今の時代の闇は、惑いと悩みと苦悩しか与えてくれそうにありません。

 苦しみを感じたら、苦しみと抱き合って苦しみの真意を聞くしかないです。悩みだしたら、悩むことの意味を問いただすほうがよいです。

 生きてる意味を感じられなくなったら、何かに役に立つように行動し生きるべきです。

 目をつぶっても闇を意識することはよくないです。真っ暗な中にも光を感じ、人よりももっと大きな存在があることを知るべきだと思います。

 闇の中で答えを出そうとしないでください。どれだけ眩しくとも、光り輝く場所で、色々な答えを探すようにしてください。

 目をつぶると何が見えますか?恐ろしいものしか見えない人は、それ以上闇の想像力を進めないことです。そこから、なかなか下がることも出来ませんが、じっと我慢強く待っていれば、必ず光は見えてくるはずです。

 
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by fenice2 | 2009-12-20 01:08 | 悪魔

悪魔祓いという玉置神社を尋ねてー現代の悪魔とは

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 先日、思い立ったように熊野ほうに車を走らせて、熊野神社の奥の院でもある玉置神社に参拝に行ってきました。日本の数多い神社の中でも、悪霊ではなく、悪魔祓いという神事があるのもここだけで、創設も紀元前30年から40年とされてしますが、もっと古代に遡るという人もいます。

 後で知ったのですが、最近ではパワースポットなどととも言われているらしいのですが、僕は境内の写真を見た瞬間に何故か魅力を感じ、その日に行く事にしました。

 時間は少々かかると思っていましたが、京都から5時間近くかかることになりました。元々父の在所は奈良ですが、先祖の墓は未だに吉野の下市にあって、僕は考えたら母方は、霧島神社の末裔で、父のほうは修験者の里が郷里なので、なるほどの僕自身も怪しい方向に行きそうになってしまうのはよく分かりました。

 変な趣味がありまして、大体山に行くときは真夜中か夕方以降が多いのですが、流石に熊野は山深いこともあって、夕方には着くようにしていたのですが、都市生活者にとってそこはあまりにも常識はずれでした。

 千メートルの山の上まで車で行くことも、なかなか無いことですが、真っ暗な山道を登っていて果たしてこの上に本当にそんな立派な神殿があること自体が不安になってきました。

 山深い、道を運転してきて僕自身は、一体何から守ってここまでの場所につくったのかを想像したり考えたりしていました。また逆に考えれば、現代人は一体何を守っているのかと考えたりしました。

 昔は、まだ男や長が家庭や組織を守る意味や、遣り甲斐を見つけてきたように思います。生活という面だけみれば、今はお金が占める割合が多くなって、男性よりも女性が収入が多ければ、セキュリティーでさえお金で買えることになります。

 しかし、精神や心はどうでしょうか。それを守るのに男性も女性もあるのでしょうか。

 熊野修験者に女性は、まず居ません。女人禁制だといういう修行場も幾つかあるようです。相撲の土俵も元々女人禁止ですし、そこに本来心や精神世界の中でも、男性でしか出来ないことと、女性でしかできないことがあるような気がしています。

 千メートルの神社に着いたときは、あたりは真っ暗で一人もいませんでした。かすかに地平線がみえて、熊野の山々の中にいて、果たしてここがどういう意味があるのか感じ取ろうとしていました。

 僕は、以前少し書きましたが、悪魔儀式なるものを中東で少し触れましたが、悪魔というものが人の中に居ることがどういうものかといえば、実感としては中から起こったものではなくて、外から受け入れてしまったというものが正確な表現ではないかと思っています。

 不思議なことに位の高い悪魔ほど、相手の心を読むといいますが、僕が接した若者も何故か僕しかしらない事実を沢山知っていて、話したりしました。

 玉置神社の全く明かりのない暗闇の中でしばらく瞑想していると、僕は身震いするほどの恐ろしい何かを感じました。熊野の山々が、まるで僕の心の中の世界と一緒になって、正面からくる何か大きなものが、そこに入ってくるような感じでした。

 幸い、何故かその大きな存在は僕を大きく通り越して、もっと後ろのほうに、都会へと流れていったような気がします。あくまで、ほんの数分のことでしたが、この世には心を襲う何か大きな存在が、あることを感じることが出来ました。

 現代では、個性や才能を伸ばすための機会が色々あるようですが、果たして僕は心も含めてそういうものは、もっと静かに見守ってあげることが必要ではないかとも感じています。特に小さなお子さんに、英才教育といって、あまりにも自分自身の時間を失わせてしまうことは、良いとは思いません。

 景気対策や、国としての政策もそうだと思います。一度弱った体にあまりあれこれ手を出し続けることはどうでしょうか。苦しむとも内面(国内)から出てくるものを、じっと待つことも大切です。

 何もかも不出来の子も、ただ成長を見守り、虐めなどから守り続ければ、何かが個性や才能として芽生え続けるようなことがあると思います。僕自身の香りの勉強も、才能を引き出すというよりも、外から如何に自分の心や精神が危うくされているかを知ることに、本質があるのではないかと感じることが多くなりました。

 守らなければならない心や精神のためにも、蝶人の会の活動ももう少し、カウンセリングの部分も必要ではないかと思っています。

 現代の悪魔は、人の心に力や技術で入ってくるものです。仮に自分自身がそれに加担すれば、大きなしっぺ返しを経験することになります。

 入っていけないもの、守るべきもの、こういうものに無頓着な人は、どんな良い面があっても最期には、良くない結果を招き入れてしまうのではないでしょうか。


 
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by fenice2 | 2009-12-11 16:48 | 悪魔

現代悪魔学ーモレクと子供の生贄

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 現代ほど、悪魔というイメージをつかむのに難しい時代はないと思う。時々そういうものは、単に人がつくったイメージだけで、世の中は平和に向かって進んでいて、何も悲観することはないと思うときもある。

 しかし、四川などの大きな災害はともかく、人が引き起こす残忍な事件には、やはりそういうものが確かに見えない世界では存在していると信じざるえない。悪魔という、非科学的で非論理的なイメージが、実は何時の時代でももっとも大きな力を持ち、人の影響を与えている。

 悪魔は、また自分の存在を隠すことが上手くて、今の時代のようにあらゆるバーチャルなものが多い時代は、実はとても活躍できる場所が多いような気がする。

 過去の悪魔を調べても、多くの悪魔が心が透き通っていて、余程普通の人間のほうが邪心に満ちているというような書き方をしている詩人も多い。

 天使は純心だそうだが、悪魔は自分の行為や行動に関しては純粋だそうだから、力のある悪魔ほど実際目の前にすると、吸い込まれるような魅力があるという。

 純粋に騙すことや、純粋に体だけでなく、魂を犯そうとする心は、実は悪魔から授かったものらしい。最も、現代の裁判で、悪魔による仕業とは言わないが、精神的な要因などというのは、ほんの僅かに、悪魔のせいだといっているのに似ている。

 悪魔は、純粋に滅亡や破壊を目指しているから、その部分を純心な天使やそれに似た心をもった人に見破られると、何の抵抗もせずにこの場を去っていくという。

 欲望や執着を強くもつことは、悪魔の存在をよりリアルに感じる機会であるのに、実際にはそういう感情的な部分に飲み込まれて、悪魔そのものを見失ってしまうことが多い。

 IBMのもっとも優秀なプログラマーは、どうしてもシステムが混乱したときは、悪魔祓いの言葉を入力するというが、コンピューターも複雑になりすぎると人の頭脳や神経のような存在になってくるから、そこに悪魔が入り込まないとも限らないという良い例だと思う。

 糸川先生から、NASAも打ち上げの時は、悪魔に邪魔をされないように全員で精霊の力をつかって離陸させる儀式をするというが、究極に追い込まれたときに何か見えてくる世界はあるのだと思う。

 ちなみに、日本の衛星の打ち上げが何回か失敗したときに、糸川先生の遺骨か遺影を入れたという話だが、それが良いふうに働いたのかどうか解らないが、今は失敗がなくなったようです。

 モレクというのは、上の写真にあるように牛の頭を持つ悪魔だが、その彫像には大きな火の高炉があって、そこに子供を投げ込む儀式を17世にやっていたところがあるそうです。

 今の時代は、このモレクを見ても恐ろしさも感じなくなった感覚になっているのかもしれません。こういうものが、何とかランドにあったら流行りそうだから、とても危険な空気が流れているのは否定できません。

 僕の仕事はイメージなので、最近時に魔が入りやすくなっているのを感じています。悪魔以上に純粋にならなくては、悪魔に笑われ、嫌というほど陥れられることになるかもしれません。

 悪い事をする人も、凶悪な犯罪をしてしまう人も、実際は大人しい性格や優しい気持ちを持っているのに、一度悪魔に魅せられてしまうと、あっという間に心を奪われてしまうようです。

 川田アナウンサーを襲った悪魔を、今回一瞬だけ僕は見えたような気がしましたが、また何処か隠れてしまいました。しかし、昨日も夢で見たとおり、大きな高笑いをしているのは、耳に残っています。

 悪魔とはたたかうものではないです。その存在を感じることが大切です。
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by fenice2 | 2008-05-29 01:21 | 悪魔