<   2009年 09月 ( 8 )   > この月の画像一覧

愛することと愛されることで始まる魂の試練

f0149554_215623100.jpg


 人が生まれて、最初に誰でも両親に祝福されてきますが、そこから始めて人として愛する時間が始まります。生まれたときは、愛することよりも愛されることに一心になりますから、まだ愛することを学び始めるのは、ずっと後になってからです。

 愛することと、誰かを好きになることは似ているようで違いますから、もしかすると何歳になっても愛することを始めていない人がいるのではないかと時々思うことがあります。

 また、愛することは今日これだけやって、明日はこれで終わりということではなく、ずっと続けていくことが出来るものではないといけないと思っています。何気なくつくる料理、何気なく掃除をすることなど、日常の当たり前のことに愛情の片鱗があるような気がします。

 愛が失われてくると確かに、もっと自分が愛することが出来る人がいるはずだと思ってきますが、それは半分はあたっていますが、半分は間違っているのかもしれません。

 本当の意味で、自分の半分魂の人との生活を行ったとしても、それほど夢のようなものではないのではないかと思ったりします。というのも、何十年と愛し続けることは、それほどたやすいことではないと思いますし、本来愛すべき人を愛せなくなったときの苦悩はとても辛いものがあるような気がしていますから、何も最初からそんなリスクを背負う人は少ないのだろうと思います。

 最初から半分の魂、つまりは愛して愛されるべきはずの人の繋がりを避けているのは、多くの人は実は一人の人を愛し続けることに苦痛を感じてしまうからだと思ったりします。運命がそうさせているのではなくて、本能的なものなのかもしれません。

 先日も、僕が仕事上で10年ほどお付き合いをした方がいますが、いつの間にか相手の方がそれを強く求めてこられるようになりました。今までにも信頼関係はあったのですから、それで十分だと思っていたのですが、知らないうちにそれ以上のものを求められるようになっていたようでした。

 しかし、愛を求めてくることは仮にそれを受け取ったとしても、今度は返さなくてはならないという心の負担が起こってきます。母子でもそれが、曖昧になってくることがありますから他人なら尚更です。

 与えたほうは、気持ちが楽かというと案外そうではないです。自分が愛を与えた相手には注意深く見ますから、なかなかそれが返ってこないとなると穏やかな気持ちではいられなくなります。

 沢山の人は、一方で一人の人を愛し続けることに憧れながら、実際にはその機会を避けているのではないかと感じることがあります。それだけ一生を愛し愛されるということは、簡単なことではないかなと思ったりします。

 愛し続けていくことは、大げさな言い方をすると試練であって、そこから逃げても結局大きな幸せはないだろうと感じています。自分の子供、両親、妻や夫それぞれその試練は何処かでは、始まっています。

 そういう意味では、愛することもそれを通すことで価値があるのかもしれません。僕もどちらかというと、そういう愛情や愛のあり方を通したいと思っています。
[PR]
by fenice2 | 2009-09-25 22:45 | 愛 愛情

愛や愛情が出来上がる仕組みー香りの中の奇跡

f0149554_046432.jpg

 
 香りの調香は、まずイメージにあわせて香料の種類を選んでいきます。子供ぽいイメージがバニラならば、母親みたいな感じがするならローズ、もしくは蘭なども時には使います。

 グリーンには、葉の香りのするものからミントなどハーブの種類のものなど数多いのですが、まれにバイオレットリーフなど花よりも葉のほうに香りが多くするものもあります。

 そのほか性格的に、孤独好きな人の好み香りや、ナイーブで傷つきやすい人が好む香りなどがあります。何も最初からその方の内面をひとつひとつお尋ねして香りをつくるわけではなく、実際に香りを選んでいただいたり、もしくはこちらのイメージで選んだものが、知らないうちにその方の内面を表していることもよくあります。

 ご本人は、単なる好みで選んでいるのですが、感覚の中には実はさまざまなドラマが隠されています。おそらく自分では忘れてしまっている遠い記憶や、どうしても何かのきっかけになると出てくるいやな思い出など、見えない部分で感覚に影響を及ぼしています。

 感覚の中でも、もっとも顕著に現れてくるのは、愛や愛情で、その逆に憎しみや恨みなどのマイナスの感情がある人も、よく香りを通じて表に出てきます。

 先日も、愛し合っている同士の方の香りをつくりましたが、香りでその軌跡をおってくるとなるほど、仲良くなれそうなイメージのものが出来てくる予感はありますが、それが愛や愛情になっていくかの可能性は、とても限られた条件ではないかと感じました。

 同じような組み合わせで香りを調香しても、とても深い愛情を示すものになることもありますが、単に友情関係を表すようなイメージの香りになることもあります。

 香りは、またその方の感じ方でかなり大きな幅が出来てきていますが、その方の嗅覚や感覚や大きく本来のものよりもずれていない限りは、先ほどのイメージを誰でも同じように感じることが出来ます。

 言い換えれば、それは仲のよい男女をみて、深い愛情に満たされているのか単なる知り合い同士にしかみえないのかの違いなのかもしれませんが、香料がいくつか組み合わさっていく中でも、ほんの少し分量やバランスで奇跡がおこったりするようです。
 
 奇跡が起こるから愛情や愛が生まれるのか、愛があるから奇跡が起こるのか、それは技術をもっている人が必ずしも感動させる香りをつくることが出来るとは限らないように、僕自身も本当に愛し合っている方の香りをイメージしてくると、偶然にもすばらしい調香に行き着くことがあります。

 そういう意味では、香りをつくっていていつも思うことですが、初めからつくられた愛情や愛はないのではないかということで、自分が人に愛情や愛を与えることが出来ると信じている人がいるとすれば、それはほとんどの部分で妄想か幻ではないかと思ったりします。

 やさしい口調で、心からこもったような美しい言葉を発しても、それが果たして愛情といえるかどうかはわかりません。それと同じように、愛や愛情にふさわしい香料を並べたところで、目の前にいる人に深い愛情を感じさせるものにするには、よほどその方との深い交流や信頼関係がなくてはならないのかもしれません。

 僕が広く香水をつくることに仕事の中心をおかずに、勉強会を通じて師弟関係のような仕事に重きをおくのもそこに理由があります。血筋のよい同士が、出会えば愛が芽生えるという確立が不明瞭であるのと同じで、愛や愛情も、そこに奇跡と呼ばれるドラマがなくては決して表に出てくることはないのではと、最近つくづく感じます。

 ”エメラルドの奇跡”もそうですし、前回の白い十字のイメージの”プレアデスの閃光”もそうです。私たちがどれほど望んでもすぐには現れないのが、愛する人ですが、奇跡さえ信じていればどこかでその経験をすることはあると思います。

 奇跡は、誰にでもきっと同等に与えられているのだと思います。しかし、それをしっかり受け止められることが出来るのはほんの僅かな人なのかもしれません。

 祈り、願いそういう中にも奇跡が知らず知らずのうちに入り込んでいます。日々の生活の中で感じてみてください。小さな花火や、何かわからないけれどもエネルギーがぶつかっている瞬間があります。それにそっと触れるだけで、自分の中の感情や気持ちが大きく変化することもあります。

 

 
[PR]
by fenice2 | 2009-09-23 02:01 | 愛 愛情

WHITE CHAKANA(ホワイトチャカナ)夢、恋、星からのメッセージ

f0149554_19191873.jpg


 お陰さまで、前回のGREEN CHAKANA、BROWN CHAKANAがご理解をえられたようで、香りを通じて自然のあらゆる場所からのメッセージを形にしたいと以前から思っていましたが、共感できる方が増えて嬉しい限りです。毎回、僅かしかつくることは出来ませんが、新たに香りを紹介したいと思っています。

 今、香りを勉強される方は、日本をほぼ跨って参加していただいていますが、お一人お一人作られる香りをみていると、個人差はもちろんありますが、地域によって受け止めている何かがあるのがよくわかります。

 九州の方は、何故か土のイメージで香りを作られる方が多くて、逆に北海道や沖縄、奄美の人は空や海、雲のイメージからつくられている人が多いように思います。

 人がまず基本的に生きていくには、前回のイメージのグリーンや土のイメージが必要ですが、しかしそれだけでは、アートや恋、人生の夢みたいなものは、なかなか得ることが出来ません。

 田舎を捨てて都会に夢を求めていくように、人にはどうしても夢とかロマンが必要になります。特にこういう閉塞感のある時代にその意識はかかせないものなのかもしれません。

 皮肉なもので、夢や恋、もしくはもっと遠い星からのメッセージが受け止めることが出来るのは、僕は、ある程度の都市ではないと難しいのではないかと思っています。

 東京ほど大きな都市は、逆に地域が限定されてきますがl、ほどよく自然があって、近代的な建物がある場所でないと、なかなかそういうものを感じることは出来ないような気がしています。

 街で漠然に歩いていると、ふと寂しさを感じることもありますが、それが自分の心からの相手を探す動機になってくるときもあります。変わったアートに触れると、なぜか遠くのほうからメッセージが聞こえそうになってくることもあるでしょう。

 大自然の中にも、宇宙からのあらゆる声が響いてきますが、大抵が森や大地の匂い、鳥や獣の声によって打ち消されてしまいます。深い森は、自分の心や内面を見つめるには適していますが、未来や星からのメッセージを受け取るには相応しい場所ではありません。

 僕自身は、京都での時間が多いのですが、それでももっとも多くのインスピレーションを感じる場所は、街の何気ないカフェの一角です。人の声や、人の気持ち、それらが交じり合ううちに時々流れ星のようにその中に、宇宙からのメッセージが降ってくることがあります。

 何処か未だ見る世界から、文明の遅れている我々地球人に向かって、閃光のようにそれは降り注いでいますが、殆どの人はそれが何かわからないうちに、過ぎ去ってしまっています。

 その閃光を受けやすいのは、恋しあっている人、余程創造的な仕事をしている人やそれを目指している人たちではないでしょうか。大きさに関わらず、心に夢をもっている人もその閃光を受けやすいのではないかと思っています。
 
 人の心には、夢や恋も必要です。それをつかさどるものは、殆ど星からのメッセージやそれを受け取った人からのものだと言ってもよいのではないでしょうか。

 今回、また新たにWHITE CHAKANA(ホワイトチャカナ)のイメージで香りをつくってみました。バラやユリ、ハマナスやジャスミン、バニラやワイン、リキュールのイメージの香料も加えてあります。70種類以上は加えて調香しています。

 日々の生活で夢を感じたり、恋を感じることが無ければ、人は、生きる意識を高みにあげて生きていくことが出来ないように思います。夢や恋を受けやすい感性や感覚を磨いていくことも大切なことではないかと思っています。

 恋から遠ざかっている方や、夢を持つことが出来ない状況にいるかたも、とても救われた気持ちになるものではないかと思っています。

 世の中が、白いイメージで少しずつ覆われる時期も増えていっているような気がします。

 <プレアデスの閃光>と命名したいと思っています。ご関心のある方は、下記の通りご連絡ください。お一人お一人対応して、香りをおつくりいたします。


  


 
[PR]
by fenice2 | 2009-09-17 20:20 | アロマ 香り

精神世界、カルト、心に忍び寄るマイナスの力

f0149554_22514050.jpg


 先日、久しぶりに下鴨神社の糺の森に行ってきました。僕自身は、母の関係で神道ですが、信仰心云々の前に、古代から信じられているものに触れることは、とても心地よさを感じることが多いです。この糺の森も何度か焼失して多くを失っているのですが、それでも過去の道筋や小川の入れ込みを残していますが、そこに歩いて触れるだけで、なんとも清清しい気持ちになります。

 以前にも少し書きましたが、僕はカルトと呼ばれる宗教組織と長年戦ってきた経緯がありまして、先月ある出版社を通じてようやくそれも結審しました。結果としては、勝訴したのですが、短いような長いような戦いでした。

 某大手の雑誌にその記事を書いたのは、もうかれこれ5年ぐらいになりますが、その記事を書いたことによって、公安警察のカルト課に属して、カルト撲滅の運動と仕事をしばらく自分のライフワークとしていました。

 僕は、若い頃有る宗教に入ったことがきっかけでしたが、そのせいで自分自身も精神的にも経済的にも大きなマイナスをこうむりましたが、アメリカやヨーロッパのカルトをかなり調べて研究し、再び自分のいた組織と対決していきました。

 それ以来、自分の関わっていた組織だけでなく、色々なカルトの相談にものってきましたが、それに気づいたことは信者はおろか、教祖自身が、精神世界の恐ろしさを知っていなかったことが原因のような気がしています。

 先日から何度も触れている祈りもそうですが、呪いや念の起こし方など過去のあらゆる精神世界の技術やテクニックが、現代ではあまりにも表面的なことで理解されていないような気がしています。

 精神世界に関することは、自分の思い込みや間違った知識でとらえることは、大きなマイナスになって自分自身に跳ね返ってくてしまうことが多いです。

 人は愛することすら、親に教わってそれを実行しているに過ぎないのではと思うことが最近、相談を受けていて思うことが多いです。親が子供を真剣に愛することで、誰かを愛していくようになるのではないでしょうか。

 野に放たれ、野生の動物に育てられた人間は、その動物を愛することが出来ても、人を愛するようにはなれません。

 先日、伊勢国一宮 猿田彦大本宮 椿大神社の宮司さんとご祈祷や御祓い、などの儀式のルーツやその真の役割などの話を拝聴してきました。当たり前のようにみえている、そういう儀式についてもう一度、深く知って感じていく必要があるのではないかと思っています。

 私たちに流れてきた宗教は、元々何があるのか。また皇室が何故、仏教を廃絶しようとしたのか、個別の宗教の名前を書くのは避けますが、今でも多くの宗教があることと、現代の精神世界や心とはきってもきれない関係にあります。

 しかし、僕は、新しい時代に入ってそういった宗教とのあり方が随分変わってきたような印象を受けています。宗教はいわば、心の中の<闇の部分に対する防衛策>のようなものであったのようですが、その闇の部分がにわかに明るくなりだしたので、その必要性については以前ほど確立したものではなくなってくるのではないかと思っています。

 闇がきえ、心が明るんでくるうちに、再び精神世界の力や技術が見直されてくるようになってきますが、それこそが古人の教えに耳を貸さなくてはならないのではと思っています。古代人は、その力を理解し、かつその力の恐ろしさも知っていました。

 モノから心に動く時代で、新しい技術が出来上がっています。自分のことながら、僕が今おこなっている調香もそういうものの流れのはしりかもしれません。単に物質的な豊かさから満足をえる時代は、少なくとも日本では終わりに近づいているのかもしれません。

 
[PR]
by fenice2 | 2009-09-15 23:38 | 滅びの匂い

スピリチャル、祈り、心の世界ー迷い始めた社会

f0149554_0552524.jpg


 京都以外の町並みをふと車で走っていると、どうしてこういう街をつくってしまったのだろうと思わせる所がいくつもあります。見た目は綺麗で、毅然としたマンションが立ち並ぶ中で、一体ここで人は何を感じるだだろうと思ってしまいます。

 何時からか、今の社会は完全に人の幸せと物質の豊かさみたいなものが、間違った方向に進み始めたような気がしていますが、建築家の安藤忠雄ではないですが、新しいものが必ずしも古いものを破壊していったとは言えないと思います。またその逆に古いものだから、何でも残せばよいというのもどうかなと感じています。

 古来、日本人は精神性というものを、今の時代よりももっと大切にしていました。精神性というのは、常識という感覚とも少し違いますし、もっと内面的なもので、気高い雰囲気を感じさせるものがありました。

 多くの人を助ける為に自分を犠牲にしていった人たちや、何かの作品をつくった時に凛と感じさせるものを残すものとか、単なる感動ではない、もっとピュアで簡単に手が届きそうもないもの、そういうものを精神性があるなどと言っていたのではないでしょうか。

 それは、よくわからない幻のようなものであったかもしれませんし、時代によっては戦争などに利用されたときもあったかもしれません。

 そういう言葉が消えていって、最近になって急にスピリチャルという言葉が出てきましたが、そのまま直訳して精神性などという意味では決してないような気がします。

 僕には、安易に触れられる精神世界みたいな意味で伝わってきて、あまり好きな表現ではありませんが、それ以上に考えさせられてしまうことは、自分の幸せのみの延長線にそれがあるのではないかということです。

 神や、精神世界というのは、元々大きな社会や沢山の人の出来事を前提として理解していくもので合ったように思います。

 先日も書きましたが、祈りも自分の幸福のことだけで利用すれば、決してよい結果が出てこないというように、心や精神世界そのものが、もっと大きな心のつながりの中で始まっているということを、忘れてはならないのではないかと考えたりします。

 スピリチャルというとても身近な言葉が、単に自分の狭い世界の損得や幸不幸を見ることしか出来ないものならば、それは幻のものであるとしかいえないと思います。

 誰かを好きになり、誰かと付き合って仮に深く傷つくことがあっても、それは単にその二人だけの問題ではなく、一つ一つの感情や感覚の元には、様々な心の世界からの影響があるのではないかと思っています。その複雑に絡み合ったものを、時間をかけて一つ一つ丁寧にみていかなければ、深い意味でのことはわかってこないのではないでしょうか。

 ベニスに行ったときに、ブラーノ島というベネチアンレースで有名なところがありますが、そこでもっとも繊細なレースをつくる方にどうして、そんなに複雑で繊細なものが出来るのか聞いたことがあります。

 そのマエストは、良いことがあっても、嫌なことがあってもひたすら編み続けるうちに、そういう素晴らしいデザインのものが出来たと仰っていましたが、同じように仏教の曼荼羅といい、古人の人はなんとか見えない心の世界に向かって、はっきりとした答えを見つけようとしていたのかもしれません。

 占いや心理テストみたいなものが流行るのは、そういった内面の関心や好奇心から出てくるものかもしれませんが、先ほどのスピリチャルという言葉の範囲の中では、それも浅く表面的なことでの結論で終わってしまうようになれば、とても残念のようなことに思えます。

 時代は行き詰まっていますし、街は幸せを感じさせない場所も増えているのは事実です。しかし、心の内面にはまだまだ人が生きていくうえで貴重な何かが沢山眠っています。

 先日も、初めて香りの勉強をされた方が、自分の内面の中に沢山の自分の可能性を見つけだされたことに驚いていましたが、それも先ほどのレースを編む工程や、曼荼羅をつくる緻密な作業に似ています。

 才能や人間性、もしかしたら愛情の中にも、そういった深いつながりの中から見出されてくるものが多いのではないかと感じています。そういう意味では、今までの社会での才能や人格というものも、もう一度見直される機会がきているのかもしれません。

 世界の平和のために祈ることは、なかなか出来ることではないです。しかし、僕は一人の人を愛する気持ちから出来るだけ広い世界に繋がっていることを感じれば、もっと強い祈りになっているのではないかと思うことがあります。

 祈りは、本来そういうものではないかと思います。

 

 
[PR]
by fenice2 | 2009-09-12 01:59 | 愛 愛情

強い気持ち、強い祈りが、時には相手を苦しめてしまうのではないでしょうか。

f0149554_0214896.jpg


 祈りの強さは、強いほどよいと思われています。人の気持ちは弱く、ちょっとしたことで強い流れの方へ流されていってしまうと思います。自分の半分の魂の相手を探していくことも、祈りが強ければそれでかなうこともあるかもしれません。

 香りをつくるときも、ふとそれに気がついた人もいました。彼女は、自分の気持ちをある人にわかってもらいために、強い祈りを香りにこめていました。僕は、香りをきいた瞬間から、かなりの強い気持ちでそれがつくられているのがわかりました。

 何もかもゼロからの出発の時は、そういう強い気持ちや祈りは必要だと思います。赤ちゃんが強く、母親といることを望まなければ、自分の存在さえ危うくなってきます。

 しかし、大人になって私たちは、実に沢山のことを身に付けて生きています。場合によっては、沢山の過去を引きずっている人も多いかと思います。好きになると、家族も何もかも投げ出してしまう人とか、思い立ったように今まで経験もなかった事業に手を出す人もいます。

 こういう不安定な時代になると、やたら気持ちの強さや勢いみたいなものばかりが大切にされるようになって、折角今まで育てて来た貴重な人間関係や自分自身の精神的な蓄積も意味がないように感じてしまいます。

 政治の動きは、言うまでもないと思いますが、そういった気持ちの強さから起こしてしまった、憂さ晴らしのような部分があるように思っています。あまりに強い愛情をぶつけられた相手は、どうなってしまうでしょうか。稀にその期待に応えて、思いがけない結果を出す人もいますが、あくまでギャンブルの範囲にあると思います。

 国と人との間には大きな不信感がありましたが、それはどちらにもそうなる理由があったように思います。夫婦ではありませんが、うまく行かなくなって本当に一方的に悪いということがあるでしょうか。

 無視、冷酷な感情の対極に、ストーカーなどの感情があって、酷い事件を起こしてしまった人間関係こそ強い愛情があるのがなんとも皮肉なものです。

 先ほどの、強い気持ちで香りをつくる女性は、あっという間に香りの真髄に近づいていきました。良い香りをつくりたい、自分の気持ちを完璧に伝えるものがほしいという気持ちがそうさせていったのかもしれません。

 技術、感情、理性、などが想像の世界では複雑に重なり合ってきますが、やがてそこにもっと重い感情、嫉妬、疑念、執着なども大きな影響を与えるようになってきます。

 人には、それぞれ登り詰めていく山というか目標みたいなものがあって、それに向かって走っているときは、まさか自分の祈りが誰かを傷つけるとは思っていません。また、私たちは生きている限り幾山も乗り越えていかなくては、ならないような気がします。

 登りつめたときから、彼女の香りはとっさに今までとは全く違うものになっていきました。優しさがなくなり、少しも相手を思いやる雰囲気が消えていきました。ただ、強く、ただ圧迫を感じさせるものばかりになって、しばらくその香りに触れているだけで不快な気持ちになってきました。

 遠く離れて、叶わぬ愛の時間が長くなると、人は知らぬうちに強い祈りを心の中に抱き始めます。そして、それは思う相手に矢のようになって飛び去っていきます。何らかの理由でその愛を受けきれない相手は、それで傷つき、また深く絶望していくこともあります。

 少し祈って、それがよくないと思えばずっと待つことも大切です。そして、長い時間待ったと思えば、また祈ればよいと思います。以前にも書きましたが、それが相手への思いやりであり、愛情ではないでしょうか。

 本当の思いや、本当の人間関係は何時の時代でも、辛い一面があるのではないでしょうか。それに向かわずしていったい人は何に向かって生きていくのでしょうか。
[PR]
by fenice2 | 2009-09-09 02:18 | アロマ 香り

救う力を持たない男女の関係は愛があっても滅びてしまいます

f0149554_051211.jpg


 今日TVで、和歌山県のイルカの漁について、ルイ・シホヨスという人がドキュメンタリー映画をつくって世界中に訴えているとのことでしたが、イルカの肉を食べていることや、イルカの飼育を半ば強制的に行っていることなどをとても強く非難する内容らしいのですが、環境保護団体と地元の人との子競り合いをみていて、今まで日本は、本当にアメリカと精神的な交流を行ってきたのだろうかと思ってしまいました。

 先日から、中国の方のいわゆる国家内部で重責にある方と接してきましたが、どうも心の深い部分ではつながっていくことが出来るのではないかと感じることが多く、特に病院関係のトップの年配の女性の方は香りに対する意識が強く驚いてしまいました。

 中国は、日本よりも文明の成熟度やあらゆる点で遅れていると思っている方は多いと思いますが、少なくともトップクラスは日本のそのクラスよりもあらゆる面で人間力みたいなものは、遥かに上をいっているような印象を持ちます。

 日本は、アジアに対してずっと秀でた存在の国でしたが、一人一人の感性やポテンシャルみたいなものは、実はもうかなり前にそれらの国の人々に追い抜かれている部分があるのではないかと思っています。

 かろうじて企業や国の仕組みは、長年の積み重ねで体裁を守っていますが、本当の意味での国の力は人が支えていますから、そういう意味ではかなり衰えた国になっているのではないでしょうか。

 アメリカは、日本にとっては長年の友人のような存在であり、恋人のような立場になっているような時期もありました。他の国よりも、もっとも多く交流し、その反対に中国はおろか韓国さえも一時は疎遠になった時代もあったように思います。

 アメリカの歴史と文化、日本のそれが刺激しあったり助け合ったりすることはあったように思います。しかし、僕のような感性と感覚の世界の人間からすれば、それらは全て幻の部分も多かったのではないかと考えたりします。

 やはりEUでもイギリスとアメリカとの繋がりには、日本とアメリカは届きそうにありませんし、本当はあまり深い意味で付き合わなかったからこそ、なんとなく月日をすごすことが出来たのかもしれません。

 日本のそういった、曖昧で受身な外交姿勢は、やがては多くの人の人間関係にも影響をしてきたのではないかとも感じています。夫婦、恋人など特に男女関係にはそういう背景が大きく影響してきたのではないでしょうか。

 アメリカの中には、日本を救うつもりで戦後付き合ってきた人もいるかもしれません。日本も、そんなアメリカ人に色々なあっても好意をもって接してきました。しかし、所詮はどれだけ深く交流しても心からお互いを理解し、愛せなかった国の間柄だったのかもしれません。

 政治のことはあまり触れたくはありませんが、そういう精神的な背景で、大きな転換もあったのではないでしょうか。アメリカ人の多くは、結局日本を救うことなど出来なかったし、日本も本当の意味でアメリカ人を好きになることは出来なかった。

 先日、ある熟年の夫婦の離婚についての相談を受けていて、ふとこのことが自然に浮かんできました。もっと若い世代は、とっくに国としてのアメリカとの嘘やごまかしの付き合いにはわかっていたのかもしれません。

 しかし多くの人がほとんど何も行動しなかったので、何もかも無気力になっていって、ついに自分の心の中でもっとも強くパッションを失っていったのではないでしょうか。

 愛する力、救う力が今もっとも多くの人に欠けているように思います。そのせいで本当は愛し合うべき人の関係もうまくいかないことも多いようです。もう一度、この強いパッション、誰かを救わずにはおれない感情を取り戻していくべきです。


 
[PR]
by fenice2 | 2009-09-04 01:24 | 愛 愛情

愛する関係は、救われる関係に似ています

f0149554_2018123.jpg


 子供のとき、何故か森を歩いていてふと出会ったのが、この糸トンボでした。僕が見たのはもっと、淡いグリーンでしたが、ちょうど二匹のトンボが求愛をしているときでしたので、その不思議な動きをずっと眺めていました。

 見惚れるというのは、後にも先にもそれほどそんなには無かったように思います。僕にとって森は、狩の場所でもあり、色々な自然の姿を教えてくれる先生のような存在でした。綺麗な虫を見つけては、籠にいれて家に帰って眺めていたりしました。

 蝶もほとんど孵化させたりしましたので、僕の部屋はちょっとした生物実験室みたいなものだったでしょうか。ちょうど小学校の一年生には誰にも負けない生き物博士でした。

 美しいものや貴重なものは、採取することが喜びでしたから、何時もそういうものを探しに森に入っていました。僕は、中学になって異性を意識するまでは、そういった虫と植物と星、海が世界の全てでした。今よりももっと純粋に世の中をみていたように思います。

 大人になって、人をもっと意識するようになって、早くから社会の中でも責任を負わされる立場になりましたが、そのときの少年時代の頃の記憶や感覚は、消えては浮かびまた消えていきました。

 もう流石に、蝶の孵化は出来そうにありませんし、木の匂いだけで昆虫を、何時間も探すことも根気がありません。自然と僕の関係は癒し、癒されることが多く、それ以上の関係を求めていかないようになったのかもしれません。

 深い海も高い山も何か大人の社会がつくった、小さなリクレーションにしかみえずに、今では妙な時間に森に出かけていって、嗅覚を休める時間をつくっているに過ぎません。

 自然と人間は、多くの人はそんなに密接に関係していませんし、人間の勝手な都合で心地よい場所だけを切り取って、自然と溶け合ったような感覚に酔いしれている人も多いようです。そう意味では、田舎に住んでいるからといって、自然を理解しているとはいえないようです。

 森に入って、沢山の怪我をしましたし、蜂と格闘したりしました。良いことばかりでなく、怖いことも多く経験しましたが、それでも自然に対しては心を閉ざすことはなかったように思います。

 あの時、僕はそれほど何かを求めていたようには、無かったようです。そうではなくて、何かに引き込まれるように森に入っていきました。天気もそれほどよくもなく、ただただ不思議な感じでした。

 少し日が射す、岩清水が流れる場所があって、そこに何気なく腰を下ろしました。ふと見ると先ほどの糸トンボが求愛の動きで、目の前を何度も重なるように飛んでいました。その何気ない光景が、最近特に何度も思い出すことがあります。

 お互いを助け合って、お互いを気遣って、お互いを意識しあって、それは生物の基本的な愛でしょうが、それは何十年経っても記憶に残すほど美しいものでした。

 人が人を救うこと、人が人を愛すること、それは本当は少しもずれがあってはならないものなのではないでしょうか。人を好きになることも、そういった心や生き方を救うことから始まっているような気がします。

 心を救うということや、心からつながっていくということが、何とも距離感を置いてしまう世の中になっていないでしょうか。好きとか嫌いから始まる、か細い愛や愛情になっていないでしょうか。愛は、とても大きな感情で愛すると一言でいっても、あらゆる可能性を含んでしまいます。

 愛する人に接すると心が救われないでしょうか。自分が救われたら、相手を救ってあげたいと考えることはないでしょうか。

 愛が生まれる時代でもありますが、愛が壊れる時代にも入っているような気がしています。どれほど強く大きな愛情に囲まれているようにみえても、お互いに救う気持ちがなければそれは成り立ちません。

 愛をただ受けるだけの関係になってしまうこともあるようです。しかし、それは親子の愛情に似ています。子供は何時かは、其の愛を返すことが出来るものをもたなくてはならないです。

 対等な愛情を求めるなら、同じだけ救う力をもっていないと成り立ちません。このことがもっとも今の現代の男女間の問題になっているような気がします。また、この問題については触れたいと思っています。
 

 

 

 
[PR]
by fenice2 | 2009-09-01 21:10 | 愛 愛情