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京都時代祭りー紅葉の季節の前に

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 京都での勉強会の合間に、時代祭りでにぎわっていましたので、しばらく見ていました。これは、流鏑馬というもので、馬に乗りながら矢を当てるものですが、衣装が美しくその色彩に関心していました。

 単に矢を当てるだけならこのような、衣装や装備は必要ないのですが、一年の計を占うということになると、こういった背景は必要なのかもしれません。


 先日の続きになりますが、生まれついて愛情に満たされた人は、いわば愛情の優等生みたいなところがあって、生物学的に言っても長生きしやすく、生存競争にも打ち勝つ可能性を持っています。

 それに比べて、両親や身内に情愛に縁が遠かった人は、愛情の劣等性で世の中に出ても、挫けやすくまた対人関係でもトラブルを起こしやすいのではないかとも言われています。

 愛情までが偏差値のように決められてしまったら、人の生きる運命はほぼ10代の頃までに決まってしまうといってもよいかもしれません。

 しかし、この愛情や愛というものが、わかっているようで不思議なところが多く、確かに劣等性はいじけた人生を暮らしそうになりますが、何かのきっかけでもっと大きな人類愛や博愛の精神に目覚めることもあります。世の中で偉業を達した人は、よく私生児だったことを聞きますが、それもその証拠でしょう。

 また、傷つけることが何一つない家庭に育った人が、逆に世の中で何かのきっかけで転落始めると、坂を転げるように堕ちていくことがあります。

 愛情や、愛というものは実に厄介なもので、与えすぎると妙にオカシナものになってしまい、逆にうまれつき仮に少なかったとしても、何処かで補給しようとして大きな愛情になってしまうこともあって、逆に愛情を与える立場になることもあります。

 先日、人が人の愛情の大きさや力を影響するには限界があると書きましたが、それでもやらないよりはやったほうがずっとましだと思っています。いや、むしろそれが人として生きる道ではないかと感じたりします。

 人柄、家の筋そういうものは厳然としてありますし、それが結婚などの時には大きく関係してくると思います。海外の王室で、王位を捨ててまで平凡な市民と結婚したという話がありますが、それも家柄から受けた愛を超えて何か他の愛情に目覚めたからなのかもしれません。

 アフリカの難民を家柄が悪いといって、救うのをやめたりするでしょうか。しかし、隣国である中国や韓国には人種や歴史の支障などによって、そういった偏った感情がわだかまっています。

 自分自身がもっている愛情や、愛とはなんだろうと時々僕も考えます。そして、大抵がそういった大きな愛情ではなくて、箱に入った救われるものだけを救う愛情だけに固執しているのがわかります。

 目に見えて救われるものを救うというのは、なんとも想像力がない世界観だと思います。人が人として生きる道は、愛したものを救うではないでしょうか。

 貴方が愛した人が溺れて、明日をも知れない命なら、どんなことがあっても助けるべきです。今の時代は、愛することと助けることが同時に起こっている流れになっています。当分、その流れは変わらないでしょう。

 助けることを放棄することは、愛することを放棄することと同じになってきます。
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by fenice2 | 2009-10-25 00:25 | 愛 愛情

愛せない人に愛を与えることー無謀な冒険か奇特な精神か

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 久しぶりにイギリスの妖精で面白いものがありましたので、載せてみました。妖精のイメージは色々なものがありますが、時と場合に応じて好きになるものがあるので不思議です。

 最近香りをつくっていて、愛せない人をなんとか愛に目覚めさせて欲しいというようなイメージのものを依頼されましたが、なんとも悩んでしまいました。香りとして成り立つかどうかもありますが、そのイメージが余りにも希薄で脆いものにみえたからです。

 本当の意味で誰かを愛しているときに、出来れば相手の人も愛を返して欲しいというのは特別な感情ではなくて、むしろ自然な心の動きなのかもしれません。

 しかし、愛を返せるどころか愛そのものもを忘却してしまって、愛することすらわからなくなっている相手に、愛を与えていくことは、なんともつらい悲劇です。
 
 愛は与えないと、与えられないということは真実ですが、それがたまたま意識した人がそういう愛することを忘れてしまった相手ならば、まるでざるに水を注ぐごとくなのかもしれません。

 僕は、あえてその方には相手を愛しているのではなくて、好きになっているか意識しているだけと言いましたが、それでも愛していきたいようで、男女だけでなくとも、人間関係にはそういったなんとも理屈には説明できない理不尽な心の世界があります。

 人が人を愛していくことが出来ないという事実は、どうであれ心が弱っていることなのかもしれません。そして、そういう相手にどれだけ強く大きな愛情を注ぎ込んでいっても、無駄なことなのかもしれません。

 心や意思が強い人でも簡単に人を愛することが出来るようにすることはなかなか難しいことだと思います。流石に僕も香りの力で、それが魔法のように出来るとはいいません。

 結局、僕は以前妖精辞典で見つけた愛を気づかせることが出来る妖精を香りのイメージにすることにしました。調香方法はそれほど大きく変えたところはありませんが、人のイメージをつくる以上に、香りの軽やかさみたいなものに気をつけていきました。

 以前にも天使のイメージで漠然と香りをつくったことはありましたが、今回のように具体的なイメージがあって、幻想的な香りをつくることは初めてでした。

 神から始まって、どうして天使や妖精のような存在が心の世界には必要なのか改めてその香りをつくってみてわかりました。人の心は、人が救う以上に、そういった天使や精霊などの働きが不可欠なのだと思います。

 心理学や、精神の力もありますが、実はそれ以上にこういった幻想的な力を無視しては、人間の力の傲慢さを助長させるだけなのでしょうか。救えるものは、許し、救えないものに対して明らかに卑下したり同情したりしながらすごしてしまう行為こそ、愚かなことなのかもしれません。
 
 その妖精のイメージの香りは、結局二人の間にわだかまる傲慢さを消し去っていきました。勿論、相手の方が愛する気持ちを取り戻していくかどうかは、わかりませんが、少なくともそれで深く悲しんだり、同情したり絶望したりすることはなくなったようです。

 愛せないことは、悲しい心の出来事かもしれませんが、それに周りが絶望していくことはもっと大きな罪やカルマをつくっていくことになるかもしれません。

 今は、愛せなくても何時かは愛することが出来るよとその妖精はまるで香りを通じて言っているようです。

 愛せないことを責めることが、もっとも大きな罪をつくっていくことになっていたのかもしれません。少なくともそのことだけでも、気づいたことは香りをつくった大きな成果でした。

 
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by fenice2 | 2009-10-21 01:44 | アロマ 香り

愛と憎しみと自己犠牲ー親子の本当の理解

 
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 先日、雅楽を見に行きましたが、ふと愛や憎しみについて考えさせることもありました。僕自身、母親に対しては長い間、父の関係のことで憎しみを抱いたことがありましたが、それが今となっては、お互いを理解するうえでは何故か避けては通ることが出来なかった道だなと思うようになりました。

 愛するという長い道のりは、特に親子では、愛していくことの基本になってきますが、ただ絵に描いたような美しい関係を続けるものがよいとはいえないのかもしれません。

 大抵の親は、子供に愛されることを見返りに愛情を与えているのではないと思います。時には憎まれるようなことがあっても、どうしてもそれをしなければ親子の関係を継続していくことが出来ないという状況が幾つもあるような気がしています。
 
 それは、単に感情的な発散なのかもしれませんし、自分自身が抱えたカルマを子供にぶつけているだけなのかもしれません。

 本当意味での愛情ならば、時間がたてば納得することもあるかもしれませんが、実際には親の都合のよい自己保身やエゴからきた感情も幾つもあると思います。

 親のくせに、親でありながら許せない行為だと、マスコミなどは何かそういう事件が起こるたびに、声をそろえて非難し、理想の母親像や親子関係を力説していきます。しかし、僕は、今の時代親子の関係こそ過去の悪しき風習によって形と中身の伴わないものになっているような気がしています。

 親には孝行しなくてはいけない、親子の関係は美しいものでなくてはならないなどと言いながら、果たして周りを見回してもそのようなことを本気で思っている人がどれぐらいいるでしょうか。

 憎む気持ちは決してよいものではないのですが、ちょっとしたきっかけでそれは愛情に変わることはあると思います。それに元々親子なのですから、それぐらいの壁は乗り越えることが出来るのではないでしょうか。

 しかし、諦めたり、無視していくことはもっともよくない心の働きだと思っています。親子の関係で距離を置くようなら、僕は、これから将来起こってくるあらゆる人間関係にも何かあれば、冷たく接してしまうかもしれないと予感します。

 親子の関係は美しいものでなくてはならない、親には常に尊敬の念で接しなければならない、そういうあまりにも硬い固定観念が今のような親子の事件を起こしているのではないかと思うことがあります。もちろん、その考えや思想はとても崇高なものだと思いますが、親子の前に人と人の関係を忘れては、本末転倒ではないかとも感じます。
 
 親子の関係は、どうであれこれから自分が社会に接して行く上で大前提であり、もっとも基本になっていくこだと思います。時には衝突し、憎しみあうようなことがあろうとも最期は理解していくべきものではないでしょうか。

 憎くみ憎まれることで、お互い傷つき人生そのものもだめにしてしまうこともあるかもしれません。しかし、それだけの犠牲を払っても親子の関係を本当の意味で理解していくには、賭けていくだけの価値があるものだと思います。

 将来それだけのことが起こっても、乗り越えることが出来そうな相手なら本当の愛や理解を得ることが出来るかもしれません。しかし、少しでも怒り、悲しみ、憎しみなどマイナスの感情を出すことを厭う関係なら、深く理解していくことが出来ないかもしれません。

 
 






 
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by fenice2 | 2009-10-16 11:51 | 愛 愛情

香りによるホメオパシー 日々のカウンセリングの中で

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 最近、代替医療として香りの役割が益々その役割を担ってきたようですが、ここのところ医師も積極的に参加されて、香りについての知識を広めていく方も多いようです。アメリカなどの病院などでは随分前から、内科や外科など科によってアロマを芳香させていましたが、日本では今までは趣味の範囲でしか使われることがなかったようです。

 アロマに関しては、調香する人間の立場からすると、今までは扱いにくい点や品質について疑問に思うものも少なくなかったのですが、今回仕入れるものはかなりよいものだと思っていますので、今までの香料に加えてアロマも50種類以上は加えていこうと思っています。

 アロマの店舗などでは、幾つかの精油を組み合わせたものが売っていますが、やはりどこか強引に組み合わせたものが多く、調香の技術を一度でも経験したものならどうしてもその荒さが目立つように感じてしまいます。

 調香や香りのデザインの世界は、それぞれの香りの組み合わせや生かし方などを訓練していきますから、大抵のアロマの本にあるように、単に二つの組み合わせで合うとか合わないというものだけでつくっていくことはありません。

 また、仮にアロマを精神的なものや心の治療に役に立てるとしても、そういった調香の訓連や経験がないと、何処かこじつけたとってつけたような心理分析になってしまうようです。

 以前から香りについて、心や精神的な結びつきについて色々書いていますが、中でも人の記憶との結びつきについてはとても大きな影響を及ぼしているような気がしています。

 人の記憶が或る感情を呼び、それがまた様々な感覚につながっていくようで、或る香りから苦い経験を思い出してしまう人は、その香りと似たものについても同じような反応を起こしてしまうことが多いです。

 不思議なもので、多くの人の香りをつくっていくうちに自然とどの香りが相応しいかとか、何の香りを望んでいるかはわかってきますが、時々その予想や勘みたいなものから大きく外れてしまう人もいます。

 それが、先ほどの記憶と関係していますが、本来その方にとても相応しいと思われる香りもそういった特別な記憶の影響で、どうしても感情的に嫌悪してしまうことも少なくありません。しかし、考えてみたらこれは何も香りだけに限ったことではないのかもしれません。

 もっとも、大きな意味でいえばその方が出会わなければいけない人とか、運命みたいなものも、そういった苦い記憶やもしくは突発的な情報によって歪められていることがあるのではと感じることがあります。

 或る花の香りをきいて、素直にそのメッセージが理解できるには、よほど自分の感覚を研ぎ澄まし、その間にある澱みなどを取り除いていかなくてはなりません。

 良い感覚をもった人は、世の中の多くの部分から本当のメッセージを聞くことが出来るようになると思います。良いも悪いも、もっと多くの人がそのメッセージを聞くべきではないでしょうか。

 
 
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by fenice2 | 2009-10-10 02:01 | アロマ 香り

闇の想像力と光の想像力ー時代のパワーバランス

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 僕の父だけではないですが、戦後何年かはどこをどうやって生きてきたのか思い出すことが出来ない、思い出したくもないという人がいます。つい数日まで、多くの戦火の闇の中で生きてきた人たちが急に平和になってもなかなか本当の意味での夢や希望を見出すことは出来ませんでした。

 手塚治の”どついたれ”という漫画の中にもその一部が書いてありますが、日本は復興したとはいえ、その多くの部分を怨念や深い罪を伴う闇の想像力をえて現代に至ってしましました。

 今回急死した政治家の中川氏もそうですが、きしくも同じ日に宮内庁の幹部も山から転落して死亡しています。

 僕自身の家も人も羨むような邸宅でしたが、一日として心が休まる日はなかったことを思い出します。暗黒の想像力を手に入れた父は、事業を行うたびに財を築いていきましたが、ある時から本当の愛や愛情に目覚め、自分の足に大きな錘の足かせを履きました。

 父は、自分の心の良心には正直になってきたのですが、経営者としては失格の人間になっていきました。そして、暗黒の力は益々力を強め、さらに周囲が巨大事業に参画させようとしていました。

 父が身につけた暗黒の力は、先ほどの戦後何年かの間に、家を抜け家族から離れて小さな子供が、大阪の中で一人生きていくために、あらゆることをしてきたことでした。

 どれだけ雄弁の父もそのときの思い出だけは言いませんでしたが、本当の意味で叱られたときに見せる顔をみると身震いするような恐ろしい表情をすることもありましたので、子供ながらになんとなく生い立ちを想像出来ました。

 父のことを少しは弁解すると、同じように事業で成功した人たちに比べると、ずっと家族思いで周囲でも愛されべき人柄をもっていた人間ではなかったかと思います。しかし、事業というか仕事に関しては、おそらく先ほどの恐ろしい一面を持っていましたので、それが大きな繁栄に結びついていったのですが、多くの敵も増やしていったのだと思います。

 暗黒の想像力と、小さなものを慈しむ心そういうものが、父の心の中では絶えず葛藤していたように思っています。しかし、何時しかその暗黒の世界との境界線もあっさり超えさせてしまう出来事が起こります。僕はそれがバブルの時代の日本の経済であったように思います。

 父は、結局バブルが始まるすぐ手前、50代で他界しますが、パワーバランスの崩れから精神はかろうじて支えていたのですが、体はあっという間に蝕まれ、発病してわずか数ヶ月でほとんどの内臓が癌に侵されてしまいました。

 父の死を追うように、公認会計士や取引先の関係者もそれから暫くして亡くなりました。暗黒のパワーは何も父一人だけのものではなかったのだと思います。

 父の会社の再建に20代で接した僕は、そういう暗黒部分に深く入り込み、暫くは全く抜けることが出来ない人間になっていました。そのことは、以前詳しく書いたのですが、それが僕にとっての人生でもっとも大きな出来事であり、心の中に深い闇をつくった原因になりました。

 僕は世界を回ったり、色々な宗教にも触れたりしました、大げさにいえば、人生の使命はいかにその暗黒の想像力をこえる、光の想像力から人の関係や、仕事や社会を作り出せるかというものになっていったのだと思っています。

 香りとの出会いは、イタリアのフィレンツェでしたが、なんとも不思議なデジャブ感や懐かしさを感じていましたが、自分の中の光の想像力と結びついていくのは、それほど時間はかかりませんでした。

 平和な気持ちや愛情、小さなものを慈しむ気持ちから想像したり、人の気持ちを理解できるようにならねばといつも感じるようにしています。

 世の中が、本当の意味でよい世界になっていくのは、結局は一人一人の闇と光の戦いではないかとも思います。

 
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by fenice2 | 2009-10-05 13:40 | 愛 愛情

感覚の奥に潜む悪魔ー喜びを悲しみにする人たち

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 或る事情から、今使っている香料を全て見直すことにしています。今まで不満だったものや、使いにくかったもの、もしくはもっと高い品質をもとめて、最近毎日新しい香料を試していっています。

 香料の世界は、閉鎖的で誰でも踏み込むことが出来ませんが、中に入れば世の中の煩わしさや醜さから解放されて美しい部分に触れることが出来ます。今回、贈り物にする方も多いので、京都の和紙の職人さんと組んで箱もつくることにしました。

 自分でいうものなんですが、京都に来てからというものの、嗅覚が前よりもよい状態で過ごすことが出来るせいか、今まで自分でも気づくことが無かったことにも深く踏み込んでいけるような気がしています。

 以前にも何度か書いていますが、大きな動きの中では新しい時代を迎えつつあるのですが、どうしてもその動きについていくことが出来ない人が多く、その原因の中でも感覚がもっとも大きく影響しているような気がしています。

 人は、その体内が80%以上水分に支えられていて、食料がなくなってもかなりの日数生きることが出来ますが、水を失えば一日として生きることは出来ない生命体です。

 また、水は記憶を残す物質だとも言われていて、深い海に潜ると太古の地球の記憶に触れることができるといいますが、保守的で過去の因習や事例にこだわるのも水が影響していることが多いような気がします。

 水の記憶に対して、香りの記憶は対照的なもので、もっと前向きで明るいイメージのものを残してくれていることが多いです。稀に少し暗い記憶が香りに含まれているとしても、水が記憶するもっと奥深くて罪深いものと比べれば、せいぜいセピア色ぐらいの暗さです。

 水くさいとか水に流すとか、我田引水など水に関する諺は、人の罪やカルマなどに結びついて、日々の生活で恩恵を与えられることが多い反面、津波や洪水など大災害を起こしてしまう、まさに昔の人のいう荒神です。

  ダムを止め、海辺の景色をもう一度見直すなど過去の自然との愚かな戦いから、やっと現代社会は目を覚めつつありますが、水の方、つまりは荒神は、簡単にそういった過去の過ちを赦そうともしていませんし、なかなか忘れることが出来るものでもないような気もします。

 一人一人が、古代人のようにもう一度自分の自然本来の感覚を取り戻していくべきではないでしょうか。荒神が、今何を考え、何をしたいのかをよく耳を傾けて聞くべきです。記録的な大雨を降らして、沢山の災害が出ていますが、一粒一粒の雨には、慈愛がこもっていて実に暖かい感じがします。

 人が作った人工的な山が、その慈愛の雨に耐えることが出来ずに崩れていっています。人が植えた杉は山神にも嫌われなかなか本来の命を与えられていません。

 古代人が表現したとおり、自然は神であり、多くの摂理を秩序よく整えている緻密な知能体です。心もあれば、言葉もあって会話することすら可能です。

 自然を蔑み、陥れる感覚がやがてはそこに悪魔を存在させることになります。

 本当に愛していける人は、何処までも愛していくことが出来ます。自分がやらなければならないことは、全て自然に関係する中でしか見つけることが出来ないと思います。

 本能は、神の意識につながっています。神もまた自然の中にあるのかもしれません。

 
 
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by fenice2 | 2009-10-02 01:33 | 調香・錬金術