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明日は上賀茂神社の手作り市に出ます

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 時代祭りが先日ありましたが、半日近く回ってみてきました。なかなか面白かったです

 明日は、上賀茂の手作り市ですが、もう今回で3回目になります。場所もおかげさまでだんだん良い場所になっていくようです。明日は、あまり天気がよくないらしいので、のんびりやろうと思っています。

 遊びに来られる方は、なるべく昼ごろまでが良いようです。よろしくお願いします。
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by fenice2 | 2010-10-23 23:12 | 京都

古代人の感覚、感情ー鈴鹿の山々にて

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 御在所は、登山としてはあまりきつい方ではないですが、頂上まで2時間ほどかけてゆっくり登っていきました。鈴鹿は、奇形な石が多く、古代人の山岳信仰が行われていたことの説を支持する人も多いのですが、僕も登るたびに不思議な気持ちになることが多いです。

 今回、この写真には写っていないのですが、とても奇妙な山があり、友人に聞くとその山は最近まではっきりとした名称がわからなかったそうで、昭和になってからハライドという名前で呼ばれていたことがわかったそうですが、千年近くまえに建てられた寺が、何故か信長の時代に消えていたりと、調べれば、調べるほどミステリアスなことも多く出てきました。

 霊山の言われる山は、日本にもいくつもありますが、その中には未だに入山を極端に制限するものや女人禁制の山も多くあります。三輪山の入山に対して、激しく反対を唱える神道の関係者もいるようですが、最近の安易なパワースポットの流行は、日本人の感性や精神そのものの崩壊を感じます。

 僕は、子供時代から割りと都会で過ごしてきましたが、何故か山はよく登りました。山に入ると、感覚、特に嗅覚が敏感なせいか身が引き締まる気持ちにもなれたものでした。山は、恐怖というよりも畏れ多いもの、自分を鍛えさせてくれるものという印象を今でも強く思っています。

 10代のころは、何故か京都の奥深い山の山小屋に一人で泊まって夜を過ごしたりしました。山は、夜と昼とでは、その性格や雰囲気がまったく別のものになります。なるほど魔性というものがどこかに存在することがよくわかりました。

 山に登ること=感覚を研ぎ澄ますことに似ているのかもしれません。レクレーションや趣味で登るのもよいですが、それでもいろいろな危険は伴いますから、知らない間に身につくものはあると思います。

 頂上近くになると、とても奇妙な気を発していたそのハライドという山は、正確には祓戸という名称で文献には残っているようです。そして、そのハライドに向かって、四方の山の奇形な石が何故か、仏像や鳥居のように組んであるのが、ますます不可思議さを感じさせます。

 街中にあったら、さぞオカシイと思うそういう風景も何故か、こういう場所では単なる自然の造形物と見過ごしてしまうのが、今の現代人の感性の乏しいところなのかもしれません。和歌山の山中にもこういった奇形のモアイ像のような石が積んであるといいますから、一度探検してこようと思っています。

 ハライドに登った人たちのブログなどを読むと、まるで安易で楽しいハイキングでもしたかのような印象のものが多いので残念です。僕の頂上から感じたあの山の気は、空気の澄んだ自然の中からは考えられないほどの異様なもので、とてもその山に近づこうとは思えないほどのものでした。

 山や自然には、人間が想像だにできないぐらいの歴史を刻んでいるものもあります。見た目の美しさや、単なる気持ちの気休めにするには、身体に危害が及ぶだけでなく、精神や心の奥深い部分までも強く影響してしまうものもあります。

 祓戸(ハライド)は、古代人が感じるほど強い気を持った山であったのかもしれません。少なくとも僕には強すぎて異様な感じにしか受け止められません。三岳寺という寺が滅びてしまったのは、人の寄せ付けないそういった目に見えない気のようなものの強さだったのでしょうか。

 神社仏閣などは、そういった古代人が感じた破片みたいなものを集めて、わかりやすく人間に問いただしたものなのかもしれません。本当の自然、本当の山のエネルギーみたいなものは、およそ一人の人間が受け止めるものではないような気がします。

 そうやって考えると、最近の人間の心や文明の崩壊には、自然の根本的なエネルギーとの接し方に原因があるのではないかと感じています。自然=神でもよいのですが、人間が考えるほど安易なものでもなく、優しいだけもものではないのかもしれません。

 最近の温暖化に対しても、根拠はともかく、人間の漠然とした、自然に対する畏敬や恐怖心みたいなものが、背景にあるような気もします。人間だって、本来自然の一部分に過ぎないのに、大切な摂理や原理みたいなものを逸脱して、まったく異質な世界を作ろうとしているからおかしくなっているのかもしれません。

 心というとても、シンプルなものが人にとってもっとも身近な自然なのかもしれません。その接し方に間違いがなければ、自然との接し方にも間違いは起こるようなことはないように感じます。人と人のコミュニケーションにどれだけ長けたように見えても、そのあたりに間違いが起これば、自然と大きな摩擦と同様に、殺人、暴行、恨み、妬み、など負の衝突が起こるようです。

 香りをつくる感性も、このあたりからずれてくれば、人の気持ちを心地よくさせるものはできないと思います。

 人を助けることも、大きな誤解生じることことが起きます。最近の医学もセラピーと称する人たちもどうもこのあたりをしっかりとらえていないのではないでしょうか。
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by fenice2 | 2010-10-19 12:17 | アロマ 香り

コミュニケーション産業ー伝えるものと伝わるもの

 中国と日本のちぐはぐな折衝をみていて、いよいよ外交も民間人の専門家の手助けを必要としているのではないかと思うようになりました。以前なら、国もそれなりの機関で用は足したものですが、どうもこれだけ伝達手段が発達しているにも関わらず、基本的なコミュニケーションが出来ていなかったのではと感じています。

 身近なところでは、最近の婚活ブームに始まる、男女のコミュニケーションですが、僕はそういった国際問題を他人事とは思えない切実な問題があるような気がしています。確かに、愛情がどうとか単に好き嫌いの問題もありますが、時間のずれといったら変ですが、根本的なコミュケーション能力の欠落にもあるような気がしています。

 大体、コミュニケーションというわかっているようでわかっていないものは、何なんだろうと考えたりします。少し前には、家族内でも伝える場所と時間が決まっているようなところがあって、僕なども厳格な父と話をするときなどは、何日も前に言葉をまとめたり、相手の間合いを計ったりしたものでした。
 
 結局、何時も条件がそろわないうちに父と話す様になるのですが、きまって言いたいことの半分も言えないことも多かったように思います。そういった子供の頃の口惜しくとも、寂しい気持ちが大人になって、どうやったら自分のことを相手に伝わるだろうと努力するようになったのかもしれません。

 心があるから、伝えようとする力が生まれるとは、キルケゴールだったような気がしますが今の日本の現状は、心はあるのに伝える力が失われているというところでしょうか。

 コミュニケーション産業は、こういった今の困った現状を、うまく切り抜けようと助力するものだと思いますが、僕は結局あまりうまくいかないことが多いのではと思います。本当に何かを伝えようとするなら、まず心をみることです。心がないのに、伝達能力や技術みたいなものだけが発達してもあまり意味がないような気がします。

 国家間は、一時的に民間の情報機関のようなものに頼ることになると思いますが、それもほんの僅かな時間のものではないでしょうか。結局は、トップ同士で意志を伝えることをしなければ、誤解を生じることになると思います。

 意志伝達の誤解は、時には事件を起こし、色々なハプニングを起こしますがそれをまた面白さと見る人もいます。失恋の話は、大抵が滑稽ですが、どちらにも心から思う気持ちがあれば、誰が聞いても残念な気持ちになります。

 経済の需要と供給のバランスは、こういった心の問題と別のものだと思いますが、それがマインドとかコミュニケーションという言葉に踊らされて、一緒にされているからややこしくなっているのではないでしょうか。

 必要とか欲の部分と心は違うものです。しかし、感情はいかなるものからも表に出てきてしまいます。

 あなたの、その伝達手段は何を伝えるためのものかよく考える必要があります。欲を伝えるのに発達したコミュニケーション能力では、愛情を伝えることは出来ないと思います。

 遊びすぎた男が、折角心から愛するようになった女性と出会っても、うまく伝えられないことになります。このあたりの問題点が現代ではごろごろしています。愛することを伝えようと努力すれば、もう簡単には遊びが出来なくなります。

 欲や必要性を感じ取って、第三者が手助けすることは出来ますが、愛を感じ取って手助けすることは自分の他には、小さな天使か妖精ぐらしかないでしょう。まして、愛を伝えようとしている産業や組織は、幻以外の何者でもないです。
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by fenice2 | 2010-10-09 17:07 | 愛 愛情

肥大した感情ー消え行くものと残るもの

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 香りの小劇場という名の勉強会のテーマを色々絞り込んでいますが、やはり今は自分の感情について、煩わしい思いをしている方が多いのではないかと思っています。調香をなぞることによって、何が変わるのかということを考えてきましたが、やはりこの感情の問題と香りはとても深いかかわりがあるような気がします。

 感情は、人間がもっとも捨てられないものだと思うのですが、捨てられないものだからこそ一度作り上げられてしまった感情は、なかなか簡単に消し去ることは出来ないように思います。

 誰かを好きになった感情から、逆に誰かを憎んで仕方がなく思った感情など、香りを調香していく上で実にそういった複雑な感情が、色々関係していくものだと思ってなりません。

 漠然と香りをつくる前でも、あれこれと最初は悩み、迷ってしまうものですが、次第に自分にとって、テーマでも良いのですが、それほど多くの香料を必要としない、つまりは絞込みをされてくるのがわかると思うのですが、こういった香りの創造をしていくうちに、自分の中でも残したほうが良いものと、残さないほうがよいと思うものが出てきます。

 感情とは、僕は雲のようなものだと思ったりしますが、ようは出来上がってしまったものは、自分のものでありながらなかなか思い通りにいかないものではないでしょうか。いきなり入道雲のようになったものは、にわか雨を降らすにはおれないですし、最近のゲリラ豪雨と、切れやすい人が多いのは満更関係ないわけではないような気がしています。

 そういう意味では、感情はそのほとんどのものが作られたものなのかもしれません。(のせられたものなど)しかし、現代人はこの作られてしまう機会があまりにも多いのではないかと感じます。中には、感情のお化けのようになっている人も多いのではないでしょうか。

 自分を生かして生かして、活かし切る、ポジティブな精神生活の中にいると、ほとんど抱え切れない感情を持ってしまうこともあるような気がします。多感になった感覚は、もはや擦り切れて感情のままに振り回され、結果、流されてしうまことにもなります。

 感情が過多になると、それを表に出すことに浪費されて、自分の目標や目的みたいなものが持ちにくい精神構造になっているような気がします。調香で例えると、あまり多くの香料を選択したために、何を作ろうとしていたのかわからなくなってしまう状態に似ています。

 たいした深い意味もなく、泣いたり笑ったりするのは、たまにはよくてもだんだん虚しさを覚えていくような気がします。土の上に雨が降るのは、植物を生かす目的もありますが、コンクリートやビルにいくら雨が降っても何も生まれませんが、それと同じなのかもしれません。

 この香りの小劇場という新しい勉強会は、残すべき感情や消えていったほうが良い感情を選り分ける役目を果たせばと思っています。まったく不可思議なテーマですが、この辺りを中心にやっていこうと思っています。
 
 技術的な指導を望まれる方は、個人レッスンをお考えください。

 

 

 
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by fenice2 | 2010-10-05 00:54 | 香りの勉強会

新しい香りー鬼門香

 お蔭様で、上賀茂神社の手作り市は多くの方が参加して頂き、ありがとうございます。少し前につくった厄香のほかに、今回鬼門香というものもつくったので、もっと戸惑いの反応が多いのかと思っていましたが、意外なほどすんなり受け入れられたようで、生み出した甲斐があったかなと思っています。

 これら不可思議な香りをつくっていて思ったのですが、今の時代やたらと未来と言う言葉を使うことに、何か抵抗を感じていました。言語学の本によると、未来という言葉は、元々日本にあったわけではなく、兆しなどという言葉は古くからあったようですが、どうも明治ごろではないかという説もあります。

 日本人というか、アジア人にもそういった感覚はあまり無いように思いますし、未来という言葉には何か目に見えたようなはっきりしたものでないとよくないという意味合いもあるような気がしています。

 また、別の言い方をすればそういった未来観が、元々あった精神世界みたいなものを破壊していって、こうでなければならないとイメージしていったのかもしれませんが、それ以外の未来は捨てていってしまったのかなと思っています。

 その点、日本人の元々の精神世界には、今の時間という中にも過去から、未来に繋がる時の流れみたいなものを感じさせるものが多くあるような気がします。厄もそうですが、今回テーマにした鬼門もそうですし、祟りやバチというものもありますが、やんわりと先の時間を映し出す感性を持っている人が過去には多かったのかもしれません。

 時の流れの観察者といってもよいです。

 このままいくと、こうなるのではという漠然とした予測は、実は意外なほどあたっていて、よほどのことがない限りそのまま未来が出来上がってしまうことも多いように思います。そういう意味では、日本人の精神世界の中には、元々未来を予兆させるものが多くあって、京都でいうところのあかんものはあかんに似ているような気がしています。

 鬼門という概念も、なんとなくその場所が不快だという感覚から出来上がってきたように思いますが、大切なことはその感覚を蘇らすことではないかと思っています。歩いていても何と無く行きたくない場所には、その鬼門のような存在があるのかもしれません。

 厄というのも、香りをつくってわかったのですが、一言でいうとなんとなく嫌だけれども、時には触れなくてはならないもの、薬草なんだけれどもあまり多く飲むと体が負けてしまいそうなとか、そういう感覚ではないかと思っています。

 しかし、先ほどの未来という言葉のイメージの中ではそういった繊細で、微妙な感覚をどうも打ち消してしまうような印象があります。ポジティブという言葉の背景にも、そういったはっきりした未来を持つことがあるような気がしますが、常に明るい未来をイメージすることは、本当は僕はとてもしんどいことではないかと思っています。

 兆し(きざし)、予兆でもよいですがそういうものは、それほど未来のイメージを固定化しません。このままいくとあかんよ、ぐらいのものです。しかし、最近のスピリチャルや占いブームといい、本来精神世界の紹介をするべき人間だちが、未来という可能性があるものを僕はどうももてあそんでいるのではないかと思うときがあります。

 バチという言葉の中には、確かに未来に対する警告はありますが、元々それほど時間の流れを縛り付けるものではないのではと思っています。しかし、現代人は未来というイメージに対する、恐怖や依存からそういう世界にも何故か強い結果や、答えを求めたがります。

 企業も、売り上げ目標からついには予算という言葉にも変わっています。数字の力を利用して、さらに未来を固定させようとしているようです。未来に強いイメージを持つことは、沢山の感覚や感情を打ち消すことになるので、やはり大きなストレスを感じるようになっているのではないでしょうか。

 僕は、未来に対してはこういうぼんやりしてなんとなくあるようなないようなものでよいような気がしています。結果的に成果を挙げなくてはならないことでも、未来をあまり固定化すると、それなりに出来上がってくるものでも、だめになってしまうことも多いように思います。

 人間負けたり、不幸になってくると余計に人よりもはっきりした未来をイメージに持ちたがるようです。たまに良いことがあっても、当り前のように感じてしまうことも多いかもしれません。あまり固まった未来をもたないためにもこういったイメージでつくった香りは必要だと思っています。

 値段は、厄香と同じなので、また詳しいことを載せます。
 

 

 
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by fenice2 | 2010-10-01 13:39 | アロマ 香り